ランシュー市場を席巻した、“厚底”の衝撃と戦略

2020/4/17
これほどランニングシューズにスポットが当たることがあっただろうか。箱根駅伝、東京マラソンとランナーたちは好記録を連発し、人々の視線は自然と靴に向いた。大きくうねりを見せるシューズ市場は今後どう変わっていくのか?第1回では、“厚底”の誕生から現在までを振り返る。
“厚底”として一世を風靡している『ナイキズームXヴェイパーフライネクスト%』が発売されたのは、昨年7月である。
その後、都大路、ニュイヤー駅伝で厚底を着用する選手が目立ち、箱根駅伝に至っては各区間出走者の約85%、大迫傑が日本記録を達成した2020年東京マラソンでは上位10人全員がナイキという驚くべき数字が出た。
ナイキのビッグバンが続いている状態だ。

不可能への挑戦から始まった

ナイキによる新たな「厚底シューズ戦略」は、2017年に始まったと言える。
キッカケになったのが、『Breaking2(ブレーキング2)』だ。
イタリアのモンツァで開催され、エリウド・キプチョゲら3名が走り、サブ2(フルマラソンを2時間以内で完走すること)達成を目指すプロジェクトだ。
2時間を切るためには、42.195キロを2分50秒ペースで走ることになる。なおスタンフォード大学のマーク・デニー教授が論文に「人がフルマラソンで2時間を切るのは難しい」と記述したように、このプロジェクトは、不可能に対する人智と科学の大胆な挑戦だった。
最後尾がエリウド・キプチョゲ。前の選手たちはペーサーと風よけの役割を担う。
残念ながら2時間00分25秒でサブ2の壁を破ることができなかったが、そのインパクトは絶大で、ナイキのイメージ戦略は一定の成果を得た。
このレースに合わせて『ズームヴェイパーフライ4%』が誕生。一気に世界中に知れ渡り、日本での爆発的なブレイクを生む導火線にもなった。
日本で点火したのは、翌2018年2月だった。
東京マラソンで設楽悠太が2時間6分11秒を叩き出し、日本記録を16年ぶりに更新したのだ。
1億円を獲得したことが話題になったが、設楽のシューズにも注目が集まった。
もともとランナーはギア好きが多い。ランナーの唯一の武器であるシューズに、記録更新の秘密が何か隠されているのではないか。そんな興味からシューズへの関心が高まり、ナイキの“厚底”がクローズアップされた。
その厚底のイメージをさらにアップさせたのが、シカゴマラソンでの大迫傑の快走だった。2時間5分50秒の日本新記録を出し、8カ月前に設楽が作った日本記録を破ったのだ。
レースでは大迫や優勝したモハメド・ファラー(イギリス)を始め、ナイキの厚底を着用した選手が5位まで独占した。実は、このシカゴの前に開催されたベルリンマラソンではキプチョゲが2時間1分39秒で世界記録を更新しており、シューズは一層注目されていたのだ。
かつてはマイケル・ジョーダンが履いたエアジョーダンが世界中で人気を博し、現役時代は世界で売り切れが続出した。
世界ナンバー1の選手の意を組んだ商品を開発し、その機能性と結果を前面に押し出てコンシューマーの購買欲を刺激するのは、ナイキの得意なマーケティングでもある。

ピンク色に染まった日本一決定戦

2019年は、ナイキの厚底がレースシーンを席巻した。
箱根駅伝では、ナイキが230名95名、全体の41.3%を占め、シェア1位になった。区間賞は、10区間中7区間をナイキが制した。前年は58名の27.6%でトップではあったが、2位のアシックスとは54名、25.7%と僅かな差だった。だが、1年で大きく差を広げ、さらに20年の箱根駅伝ではシェアが倍(約85%)に増え、断トツの1位になっている。
厚底への興味のうねりが選手の活躍で大きな波となり、ナイキのシューズへの関心が一層、膨らんでいった。
そんな期待感の中、7月、ニューヴァージョンとしてデザインとカラー(グリーン)、機能性を進化させた『ズームXヴェイパーフライネクスト%』をリリースした。
9月のマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)では、そのタイミングに合わせてピンクカラーが発売され、テレビにはピンクとグリーンのナイキの厚底を着用する選手の列が映し出された。
「なんだ、あのシューズは」と視聴者やランナーの目を奪い、SNS上ではピンクが拡散した。
メディアも中村、服部、大迫と上位3名が着用したことに関心を寄せ、厚底に関する報道がつづいた。それ以降、秋の駅伝やレースシーンは、まさにピンクとグリーンの2色の厚底に染まった。
ナイキの厚底が社会現象になっていったのである。
このスピード感は、他ブランドにとっては驚き以外の何ものでなかっただろう。
勢いをダメ押ししたのが、『イネオス159』だった。17年の『ブレーキング2』から2年以上の準備期間を経て、昨年10月に開催されたプロジェクトだ。
『ブレーキング2』で破れなかった2時間の壁を突破すべく、さまざまな問題をクリアーにした。
コースはカーブを少なくし、できるだけ直線的で路面が整っているオーストリアのウィーンに設定。ランナーはキプショゲひとりに限定し、ペーサーは41名(6名が補欠)が7人一組で走り、ペースを守った。
このレースは現地で12万人が見ており、中継された公式ライブでは520万人が視聴したという。
世界が注目する中、キプショゲは1時間59分40秒で非公認記録ながらサブ2を達成したのである。
当時キプチョゲが履いていたシューズが、ヴェイパーフライネクスト%を進化させた「ナイキ エア ズーム アルファフライ ネクスト%」という最新のシューズだった。
「世界最速」──このインパクトこそ、ナイキ最大のマーケティングなのだ。
デロイト トーマツ グループのシニアバイスプレジデントの里崎慎氏は、「これはインパクトを重視したイメージ戦略の効果である」と語る。
「これまでインパクトでいうと、例えばウサイン・ボルトのような世界中の誰もが知っている人が履いているシューズで注目を集め、ブランドイメージを高めてきました。
でも、今回は世界で最速を出し、MGCで多くの選手が履き、箱根でも85%の人が履いたことで『なんだ、あれは?』と注目された。そのくらいトップ選手に刺さり、結果も出しているので機能性は証明されている。
『厚底すごいな』と広がっていくと、今度は履いてくれた人からこんな記録が出ましたという声が出てきた。ユーザーから出てきているので、一層信憑性が高い。履いてくれた人が勝手に広告塔になってくれているわけです。
トップ選手を始め、一般ランナーまでこぞって使いたいと思うシューズを作ることはやりたくてもできることではないと思うので、戦略的にそれを実現したのはすごいことだと思います」。
多くの選手が結果を出し、キプショゲがサブ2を達成した。この事実がどんな言葉よりもインパクトがある。もちろんアナログ的なマーケィングも抜かりはなく、例えばランステで試し履きができるようにするなど、ランナーとシューズを直接結ぶ機会を積極的に設けている。

今後のランニングシューズ市場は?

トップランナー層ではナイキの独壇場がしばらくつづきそうだ。
里崎氏は、「この現象はフックでしかない」と語る。
「今回の最新シューズはそれだけで利益を出そうと思っていないと思います。
記録を出すことでクオリティが証明され、デザインも格好よく、クール。そうしたブランドイメージが擦り込まれることで、トップアスリート用じゃなくてもその企業のシューズを買おうと思うようになるんです。
極端な話、最新のシューズでセグメントを取った時、赤字でもいいと思うんです。他のシューズが1.5倍の売り上げになればいい。最終的にブランド価値を高めるという企業の戦略が見えてきます」
ナイキは、ヴェイパーの勢いがつづく中で、新たに怪我ゼロを目指すというシューズ『リアクトインフィニティラン』を1月末に発売し、キプチョゲがサブ2を達成した『ナイキ エア ズーム アルファフライ ネクスト%』を2月末にリリースした。
東京マラソンでは、その新たな厚底を履いた大迫が2度目の日本記録更新を達成し、東京五輪男子マラソンの代表権を獲得した。
【マラソン】大迫傑が持つ「自分をコントロールする」技術
ナイキにとっては、追い風どころかマラソンで言えば、各ブランドを突き離して単独走で余裕の走りを見せている感じだろう。
となれば、今後のランニングシューズ市場はナイキの独壇場なのか?
そう簡単にはいかないだろう。
国内でいえば、長年マラソン界の足元をけん引してきたアシックスや、今年の箱根駅伝で「あの白シューズはなんだ?」と話題になったミズノがいる。
海外企業でいえば『ULTRA BOOST』や『ADIZERO』など人気商品を誇るアディダスを初め、各社が技術力によりをかけて、競争は激化していくだろう。
今特集では、そんなランニングシューズ市場の今後を占う、各メーカーの戦略と新シューズの技術に迫っていく。
(執筆:佐藤俊 編集:日野空斗 デザイン:國弘朋佳 写真:GettyImages)