【寺田明日香】今の私じゃないとやれないこと

2020/4/26
一度は退いた道に、様々な経験をした末に復帰──。結婚、進学、出産、ラグビーを経て、陸上競技に復帰した100メートルハードルの寺田明日香。昨年9月には日本新記録を樹立し、自分を日々更新し続けている。彼女の決断、陸上競技にかける思いは一体何か。そして、延期された東京五輪についても話を聞いた。
※この取材は3月に行われたものです。

陸上を嫌いになるのが怖かった

──寺田さんは予選敗退に終わった2013年6月の日本選手権を最後に一度、引退を表明されています。2008年から日本選手権の女子100mハードルで3連覇を果たすなど競技の第一人者として活躍してきただけに、23歳での引退は「早すぎる」という声もありました。もう競技をやり切ったという思いだったのか、それとも力の限界を感じていたところがあったのか。
寺田明日香(以下、寺田) 両方あったとは思いますね。
 そのころは病気やケガもあって、自分の体をうまくコントロールできなくなってきて、記録も出なくなりました。陸上のことを段々と嫌いになってしまったと言いますか、練習することも、競技場に向かうことですら嫌になってしまった。
 そうなるとこの競技を続けていく意味を見出せなくなってきて、別の人生を考え始めるようになっていました。
 確かに周りからは「やめるなんてもったいない」とも言われましたよ。でも私自身はまったくそう思わなかった。
 逆に23歳という年齢だからこそ次の人生に切り替えて、社会に溶け込んでいけるようなことができたらいいなと思っていました。
──当時は摂食障害もあったと聞いています。
寺田 女性として体が変わってくる時期がほかの人たちとちょっとズレていて、21歳、22歳のころは「空気を吸っても太る」くらいの感覚がありました。
 そういったことを周りに指摘されるとどうしても気になって、食べられなくなってしまう自分がいましたね。
──苦しい毎日を送っていくなかで、大好きだった陸上が「嫌い」にまでなってしまったんですね。
寺田 好きで始めたのにいつしか「義務」になってしまっていて……。そのときの私には陸上しかなかったので、正直、嫌いになるのが怖かった。
 でもそんな気持ちで続けていても効率は上がっていかないし、そもそも意味がないよなって考えるようになっていったんです。
 日本選手権で、自分の中で基準に置いていた13秒5を切れなかったので、もうそこはキッパリと迷いなくやめることができました。
──引退してちょっとのんびりされるかと思いきや、寺田さんはパワフルに行動を起こしていきます。拠点を北海道から東京に移し、そして2014年4月からは早稲田大学人間科学部eスクールに入学されます。
寺田 自分はどんなことに興味があるのか探したいなっていう思いがあったので。だから大学で勉強したいなと現役のころから考えていたんです。
──結婚をして、お腹のなかには今年8月で6歳になる果緒ちゃんを身ごもっていました。
寺田 出産の準備と勉強の両立は大変でしたね。早稲田のeスクールは厳しいと評判でしたし、覚悟はしていましたけど(笑)。
 出産してからはもう子どもの世話と授業受講・レポートに追われる毎日でした。1週間に10教科のレポートをやらなくちゃいけなくて、ちょっとでも時間が空いたら勉強していました。
 夫(会社経営者で寺田さんのマネージャーを務める佐藤峻一さん)からも「人生のなかで勉強に苦しむ時間をつくったほうがいいよ」と言われていたし、何とか3年間頑張ることができました。夫にも支えられました。
──結婚したらすぐにお子さんが欲しかったそうですね。
寺田 私もそうですけど、夫もスポーツに関わる仕事をしているのでオリンピックが東京に決まったことはとても感慨深かったんです。
 私たちの子どもにもぜひ見てほしい、記憶に残してほしいと考えたら、そのときに6歳くらいになっていたほうがいいよねっていう話になったんです。家族みんなでオリンピックを見ようって。
 だから、赤ちゃんができたと分かったとき、凄くうれしかったですね。

ラグビーから学んだ、「頼る」生き方

──「ママ」と「大学生」の両立を図るだけでも大変なのに、何と2016年9月から7人制ラグビーへのチャレンジが始まっていきます。
寺田 陸上を引退した直後を含め、何度かやってみないかと誘われていたんですけど、リオデジャネイロ五輪後に再び誘われたこともあってやってみよう、と。「今の私じゃないないとやれないこと」を優先したい、と思ったんです。
 それに40歳、50歳、60歳と年齢が上がったときに「あのときもう1度スポーツをやっておけばよかった」みたいな後悔が出てくるんじゃないかって頭によぎったので。
──目まぐるしいほどの大変な生活が想像できます。
寺田 子育て、勉強、ラグビーの3つが重なったときはすっごい大変でした。今、どれだけ大変なことがあっても、あのころを思い出すと大抵のことは頑張れます(笑)。
──本格的にラグビーを始めていくにつれて、娘さんと離れなきゃいけない時間もあったとは思うのですが。
寺田 最初、娘を(保育園に)預けることにはちょっと抵抗を感じていました。毎日の成長を見守っていきたいという思いが母親としてはあったので。
 ただ預けて1週間もすると、保育園のありがたみを凄く感じましたし、娘もお友達と仲良く遊んですぐに馴染めていました。
 ただ、ラグビーで2、3週間、家を留守にすることもあります。私のほうが寂しくなって人前でポロポロと泣いてしまったこともありましたね。
──2016年のリオデジャネイロオリンピックから7人制ラグビーが正式種目として採用され、寺田さんは「サクラセブンズ」(女子日本代表)のトライアウトに合格して代表の活動にも参加していきます。ラグビーの魅力をどう感じていましたか。
寺田 体格の違う人たちが集まって、それぞれの強みを活かしながらやっていくのがラグビー。
 私は体が細いけど、足が速いのが持ち味で、仲間からも「寺田明日香を活かすのが私たちの仕事」と言ってくれていました。
 その言葉に、どれほど気持ちが楽になったことか。このスポーツは助けることもできるし、助けられることもあるんだなって、そこが私にとっては凄く新鮮でした。
──陸上は個人競技なので、そのギャップは当然ありますよね。
寺田 陸上競技だけではなく、自分の人生においても何ごとも一人で解決しなきゃと思ってきましたから。
 でもラグビーを始めてみて、「誰かに頼っていいんだ」とか「誰かを自分が助けることもできるんだ」と思えるようになってから、何だか呼吸しやすくなったというか、そういう生き方をしていいんだって気持ちが楽になったことを覚えています。
 それに、四六時中コミュニーションを取らなきゃいけないスポーツ。チームのことだったり、試合のことだったり、ここも私にとってはちょっとした衝撃でした。
──かなりラグビーにのめり込んでいったような印象を受けます。
寺田 仲間がラグビーをしっかりと教えてくれるし、段々とうまくなっていく実感を持てるようになっていきましたから。

転向して気づいた、独走する爽快感

──しかし2017年5月、右足首腓骨を骨折するという大ケガに見舞われます。長期離脱を強いられることになりました。
寺田 入院と手術を伴うケガっていうのは初めて。でもあまり悲観的には考えずに楽観的に捉えるようにしていましたね。
 ケガによってトレーナーさん、理学療法士さんの支えもあってケガをしないためにどう体を使っていくかとか、体づくりで細かいところまで見直せたのは陸上に戻っても活かせている部分だとは思います。
──ラグビーによって寺田さんの走力が磨かれていくことにもなります。
寺田 陸上の場合、私はスプリンターなので1本、全力で走ることが多い。でもラグビーは何本も走らなきゃいけない。
 全力で走るときは走らなきゃいけないけど、いい意味でさぼるというか、効率的な走り方を覚えることができました。
──そして再び大きな決断を下すことになります。陸上競技に戻るというのはどのような思いから?
寺田 ラグビーをしている自分を分解してみたんです。ボールをうまく扱おうとする自分が好きか、タックルしている自分が好きか、誰かを追いかけている自分が好きか、それとも独走していくのが好きか。
 そう考えると独走だったんです。抜け出したときにすごく爽快感がある。ラグビーでも味わえるけど、それを多く味わえるのはやっぱり陸上かなって。
 ラグビーで走っているうちに、走るのがやっぱり好きなんだなって思えたんです。トラックがあったら、パッと走ってしまう自分がいました。
 ラグビーを続けるか、違う道に進むか、陸上に戻るか。陸上に対して好きという気持ちが出ているなら、戻るのが一番いいんじゃないかって。
──なるほど「今の私じゃないとやれないこと」ですね。
寺田 陸上をやめて6年経っていましたけど、速くなっている自信はありました。
 もちろんリスクはあります。でもここは曲げちゃいけないと思ったし、そもそも自信がなかったらやれない。絶対に結果はついてくると信じていました。

楽しむことを忘れずに

──復帰のプランはどう考えていたのでしょうか?
寺田 昔とはまったく違う自分をつくろうと思いました。
 コーチもいろんな方にお会いしたうえで、慶応大学でも指導している高野大樹さんにお願いすることにしました。
 一度引退するまでは北海道ハイテクACで中村宏之監督の指導を受けてきて、成長させてもらいました。おじいちゃんと生徒みたいな関係だったので、監督が言うことを一生懸命やるというスタイルでした。
 でも、違う自分をつくるんだったら、そこから変えなきゃいけない。
 2018年12月から高野コーチに指導を受けるようになりました。年齢が1つ上で、私も意見を言わせてもらうし、トレーナーさん、栄養士さん含めてチーム。みんなで一緒に考えながら、新しい寺田明日香をつくっていきました。
──以前の自己ベストが13秒05。6年のブランクがありながら2019年6月の日本選手権では13秒16で3位。その後も徐々にタイムを上げていき、9月の富士北麓ワールドトライアルにおいて12秒97の日本新記録を叩き出します。日本人初の12秒台を復帰した寺田さんがマークしたことは、周囲に大きな驚きを与えました。
寺田 私としては復帰してから12秒台がなかなか出ないなという感覚でした(笑)。9月にようやく出せて、ドーハ世界陸上への出場を最後に決めることができました。
──新しい寺田明日香とは?
寺田 昔と着眼点は一緒でも、考え方が違っています。
 1本走っても、今はあらゆるところを意識できています。これは昔の私になかったこと。漠然と意識していたくらいのレベルだったので。
 今はどうしていけばいいかを考えて走っているので、修正するスピードも速い。
 これは子育ての経験が活かされているなって思うんです。同時にいろんなことをやらなきゃいけないマルチタスクをこなしてきたからだ、と。
──勉強やラグビーも。マルチタスクによって、あらゆるポイントに意識できているんですね。
寺田 そうですね。昔は負けたレースとか、悪い内容のレースを振り返ることはありませんでした。
 今は逆ですね、そっちのほうばっかり見ます。改善しなきゃいけないところがはっきりと分かるので。
──さて、東京オリンピックは新型コロナウイルスの影響により、来年夏に延期されることになりました。延期が決まったことで何か感じたことはありますか?
寺田 延期は残念ですけど、家族をはじめ大切な人たちのことを考えたり、人々の健康、安全の大切さというものをあらためて感じました。
 それと気づかされたという点では、私オリンピックイヤーになって、意外にピリピリしていたな、と。
 この競技に戻ってきたとき、チームを組むみんなに「もし結果が出なくても、みんなで一緒にやってきたことが良かったと思えるようにしたい」と言いました。でも結果ばかりにこだわって気合いを入れ過ぎていたんじゃないかって。
 楽しい気持ちを忘れたら、昔の自分に戻ってしまう。みんなと一緒に、過程を大切にしていくことに目を向けていく、楽しんでいく。もう一度そこを意識していきたいなと感じています。
──延期になってポジティブな面があるとすれば?
寺田 来年31歳になることを考えると、ケガのリスクを含めて(年齢的に)難しいところは確かにあります。ただ、今の自分の走りが完成形ではないので、その部分で精度を上げていく時間があるというのはポジティブな側面と言えることができるかもしれません。
──もし果緒ちゃんが生まれていなかったら、陸上に戻っていたと思いますか?
寺田 やっていないですね。絶対に。
──寺田さんにとってどんな存在なのでしょうか?
寺田 原動力です。その一言に尽きます。
 今、誰よりも娘のプレッシャーが一番きついんです。「次は金メダルじゃないとね」とか。結構足の速いキャラで30年間生きてきたんですけど「遅い」とかズバズバ言われています(笑)。
 だから、彼女に「速かったね。かっこいいね」って言われたい。そのためにも頑張んなきゃなって思います。
(執筆=聞き手:二宮寿朗 編集:石名遥 撮影:鈴木大喜 デザイン:小鈴キリカ プレー写真:本人提供 家族写真:南しずか)