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社会運動家化する「専門家」たちの「責任」

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    ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE, ロンドン大学) 客員研究員

    専門家の知見(インテリジェンス)は、政策決定者(政治指導者)の判断の指針とならなくてはいけないが、政策決定に踏み込んではならない。なぜなら政策の結果責任は政治家が負うからだ。方や政治家は、インテリジェンス以外にも様々な要素を考慮しながら政策決定を下す。欧米の研究が示すのは、政策決定者とインテリジェンスはある程度の距離を保たないといけないということだ。今の専門家会議は政策決定に影響を与えようと躍起になっているように映る。もちろんそれは国民の生命を守るためなのだろうが、戦前の軍部も同じようなことを言っていたことを忘れてはならない。


  • 北海道大学

    専門家に問われる責任とは何だろうか。
     専門家が行う予測であっても、それはあくまで蓋然性の話であり不確実性を伴う。したがって、それを基にした価値判断は専門家が担う役割の範疇を逸脱しているという見方もある。実際にトランスサイエンスは公共圏での議論を必要としており、専門家のみに責任を押しつけることはできない。しかしながら、専門家でなければ判断が難しいような場合もあり、適切な役割分担のために科学とそのほかの領域を切り分ける作業(境界線策定作業)が重要となる。
     藤垣裕子(2016)は科学者の社会的責任についての言説を、(1) 責任ある研究の実施、(2) 責任ある生産物、(3) 応答責任の3つの相に分類しており、本記事では特に第2相および第3相に言及しているといえる。また藤垣は、「科学そのものを特徴づけ、科学と社会との関係を特徴づけてきた高い"信頼性"こそ、今日の比類なき科学的生産力の時代をつくりだしてきたのである。しかしこのような信頼性は、科学者のコミュニティー自らが節度ある科学活動によって得た基準を、具体的に示し伝えていくことに努めなければ、維持できないことを心にとどめてほしい」と述べている。
     科学の将来的可謬性、もとい経験的可知性と近似的真実性が相関関係に過ぎないと説明した上で、いかにして社会との信頼を築いてゆくのか。研究不正を匡す第1相を含め、専門家に求められる責任とは貪欲なまでの謙虚さと真摯さなのかもしれない。

    <参考文献>
    藤垣裕子「研究公正と科学者の社会的責任論をめぐって:科学者集団の自律性とは」『哲学』2016巻、67号、80-95頁、2016


  • スポーツフィールド 元パラバドミントン選手

    政府や専門家会議の報告書や会見から、ワイドショーやネットもぼちぼち見てますが、クラスター対策班のTwitterのお陰でネット上では日本モデルの意図が伝わり始めたかなと感じています。本来は政府広報やメディアがこの辺をちゃんと解説すべきなんですが、伝わってないので業を煮やして踏み切ったんじゃないですかね。アカウントに厚労省とか官邸のロゴが入ってないあたり、公認は得られないけど押しきってスタートした感があります。

    また、8割減のグラフはちょっと厳密ではなく、私もスローガン的な意味合いが強いと思いますし、二階氏の気持ちもわからんこともない笑
    西浦教授は会見の発言から専門家会議内では悲観論者の雰囲気がしましたが、3/19の会見後の3連休で自粛疲れによる状況悪化により、支持を得やすくなっていった面はあるかもしれません。

    本来は専門家会議の見解を参考にして政治家が意思決定をするため、政治家が責任を取るべきですが、非公認Twitterアカウントで発信をするのであれば、この記事の指摘は確かにその通りかもしれませんね。ご本人も学者生命を賭けた戦いだと感じておられるのではないでしょうか。

    理学修士の端くれの一般人としては、数理モデルの専門家が首相を説得して日本を救うという映画みたいなストーリーを無責任に期待しています。


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