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全国で一斉休校始まる 児童預かり、授業縮小も

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  • 時差出勤のため国会中継の冒頭を見たが、やはり安倍首相は全国一斉休校を決めた判断の根拠を説明することはできなかった。
    専門家意見で採用したと強調するのは「ここ一二週間が山場」という部分のみである。「感染の広がっている地域によっては休校も検討対象」という以前から出されている選択肢を突如「全国一斉」に拡大してやるべきとした判断の根拠は何か、が大きい問題なのだが「子供の安全を考えて私の責任において判断した」としか言えず、これでは「子供を優先にした方がいいのではとなんとなく思ったのでエイヤで決めた」と言っているのと変わらない。
    「このような選択肢とこのような選択肢があり、この選択肢の方を優先すべきであるこのような要素があるのだが、詳細な裏付けデータを待つ時間はない状況であるため私の責任においてこの選択肢を取った」これなら分かる。
    もし「個人的になんとなく思ったのでエイヤで決めた」ならそのように説明するのが責任を取るという言葉の意味ではないか。「俺のカンは6年間この国を引っ張ってきた一流のものだ、国民が信頼していないと思うなら次の支持率調査を見てみろ」と返せば良い。それなら古い表現で言えば「腹を括った」態度であるとして、昭和の価値観の人の中には評価する人も出てくるかもしれない。
    実際には、合理的判断であると見なせない判断に全員が盲従するほど現代の民主主義国家における国民は非知的ではない。だからこそ判断の合理性を説明する必要がある。
    例えば、政府がやれることはほとんどなく国民の自主防疫努力にお願いする他ない中で、やらないよりやった方がいい程度かも知れないけれども経済壊死リスクが少ないと判断できるこの策だけを政策としてやった、なら、そう言うしかないのではないか。それならば次にありうる感染症事態に向け、各選択肢の経済壊死リスクをチャート化できるようにしておこう、とか、次に繋がる議論ができる。他に根拠があるならそれを示すことで、次の事態に備えることができる。
    判断の論拠を示さないことを批判することについて「今は過去にこだわっている時ではない、批判は責任がない人間のから騒ぎだ」とする論調も見られる。批判は過去にこだわっているのではなく、次の議論を腰砕けにしてしまうからだ。そのような国民の姿勢こそ、先の大戦へわが国を導いた翼賛体制の構成要素だったと理解している。


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