あの「高速水着」は、競泳界に何を残したのか?

2020/2/3
アスリートの持つ特別な「心技体」を解説する「Pick The Skill」。東京五輪での活躍が期待される瀬戸大也の出した日本新のすごさからその背景に迫る。
日本だけじゃない。すでに世界が彼の虜だ。
1月18日、中国・北京で行われたチャンピオンシリーズで、200mバタフライに出場した瀬戸大也が1分52秒53の日本新記録を叩き出した。
それまで松田丈志が持っていた日本記録が1分52秒97。0秒44上回った。
瀬戸は昨年12月にも400m個人メドレーで短水路世界新記録をマークしている。
「世界のライバルたちも(瀬戸は)どうなっているんだ、と思っていると思う。この強さを肌で感じているだろうし、ボディブローではなくてKOパンチに近いと思います」
平井伯昌日本代表監督がそう舌を巻くほど、瀬戸の勢いは衰えを見せない。
瀬戸大也の躍進。その背景には競泳界が取り組んできた「技術革新」にアスリートが全身全霊で適応してきたストーリーがある。

塗り替えられた“2008年”の日本記録

今回の日本新記録で特筆すべきは、更新された記録が2008年の北京五輪で樹立されたものだということ。
2008年・2009年に出された日本記録(個人種目)は多く残っている。女子は200m背泳ぎのみだが、男子は800m自由形、背泳ぎの50m、100m、200mの3種目、そして100mバタフライ。
世界記録に目を向けると、特に男子は自由形の50m、100m、200m、400m、800m、そして200m背泳ぎ、400m個人メドレーと17種目中7つもの種目が2010年以降、更新されていない。
なぜこれほど2008年、2009年の記録が残っているのか。
そのヒントは、世界を巻き込んだあの『高速水着問題』にある。
2008年、世界に大きな衝撃を与えた『レーザーレーサー』が発表された。
日本では北島康介を初め多くの選手が着用し、同年6月のジャパンオープンでは16種目の日本記録がレーザーレーサーを着用した選手によって塗り替えられた。
当然世界のトップ選手も着用し、北京五輪では男女合わせて23個の世界記録が生まれた。
瀬戸が更新する以前の200mバタフライ日本記録も、松田がレーザーレーサーを着用して北京五輪で樹立したもの。もちろんその記録は選手の努力によるものであるが、水着が与えた影響も無視することはできない。
翌2009年には、レーザーレーサーに追いつけ追い越せと各社が水着開発に力を注ぎ、いわゆる『高速水着時代』へ突入。同年に開催されたイタリア・ローマでの世界選手権では、なんと43個の世界新記録が誕生することになったのである。

レーザーレーサーのカラクリ

瀬戸大也はこの記録を更新した。しかし、「だからすごい」というのは早計だ。
そもそも、なぜ高速水着はあれほど記録更新に結びついたのか。その主たる理由は、『身体が浮いて安定する』ことだ。
レーザーレーサーの特徴は、水着にポリウレタンのパネルが付けられていて、身体を締め付ける力がかなり強いことだった。着脱に30分以上の時間を要したと言えば、締め付けの強度がどれほどのものか想像がつくだろう。
この強い締め付けは、物理的に水の抵抗を減少させるだけではなく、体幹を補強することによって身体の安定性を高めた。
水泳選手は前面から受ける水の抵抗を減らすためにできるだけ身体を水面近くに浮かせた状態をキープさせる必要があり、泳ぎながら身体を沈ませないような動作をストローク(腕で水をかく動作)やキック(脚で水を蹴る動作)で自然と行っている。
つまり、水をかく力やキックの力は、“前へ進むためだけ”に使われているのではなく、“浮くため”にも使われているということだ。
おおよそのイメージとして、ストロークやキックで得られる力を100%とするならば、10〜20%ほどは身体を浮かせるために力が使われている。
高速水着は、その身体の浮力を得るために使っていた10〜20%の力を限りなく減らしてくれたのである。
水着が体幹を保持し、身体を真っすぐな姿勢で水面近くでキープしてくれるので、選手はほぼ100%のエネルギーを推進力に使えるようになった。
その結果、“最速の泳ぎ”も変わり、パワーのある選手がどんどん記録を伸ばしていくことになる。
フランスにアラン・ベルナールという100M自由形の世界記録保持者がいたが、彼はボディビルダーと言っても不自然ではないほどの肉体を有していた。
ベルナールは2009年に100M自由形で初の46秒台を叩き出したが、水着が非公認だったことで認められなかった経歴も持ち合わせている。
196cmの巨躯を誇ったフランスのアラン・ベルナール
また、高速水着は、特に自由形と背泳ぎで威力を発揮した。身体を浮かせるために使われていたストロークやキックの力が多かったこの2種目の世界記録には、現在も高速水着時代のものが多く残っている。
これは、身体を浮かせるストロークテクニックがほぼ不要になったので、純粋に水を押す力を持った選手がタイムが伸ばした、と言えた。

高速水着が示した未来の可能性

その後、国際水泳連盟の会議で事実上禁止となった高速水着だが、その登場は競泳の一時代をつくったとも言える。
「体幹を安定させ、身体を水面近くでキープすること」がタイムを縮める手段の一つであることを証明したのだ。
これにより、泳法の変化はもちろん、トレーニングも進化した。特に、陸上トレーニング、体幹トレーニングの発展は著しい。鍛える部位も行う種目も多くなり、効果的な器具もたくさん増えた。
ウエイトトレーニングも、ただ重たい物を持ち上げてパワーをつけるよりも、全体のバランスや競泳の動作に直結する筋の出力の仕方が重視されるようになった。
身体の使い方も、水中姿勢の安定を優先した形へと変化している。クロールや背泳ぎで身体を横に傾けるローリング動作も一昔前に比べれば少なくなった。それに合わせて、効率良く水を捉え推進力を生み出すストロークテクニックも進化している。
当時、高速水着を着て樹立された記録は「向こう数十年は破られないだろう」と言われるほど驚異的な記録ばかりだった。
しかし、高速水着によって証明された泳法がトレーニング、テクニックの進化が合わさり、いつしかその記録自体を過去のものにしていったのである。
瀬戸大也の記録更新はそうした過去からの結集とも言えるのだ。
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時代の変わり目

瀬戸の躍進には他にもいくつかの背景があると思われる。ひとつは、目標設定の違い。
瀬戸が得意な400m個人メドレーを例に取れば、10年前、高速水着で更新される前の世界記録は2007年の4分06秒22。日本記録は、2009年に更新される前は2004年の4分14秒79だった。
選手たちが、最初から4分14秒79を出すためのトレーニングをするのか。それとも現在の日本記録である4分06秒05を目指した練習をするのか。それによって、練習中におけるタイムの目標や設定、トレーニング方法も大きく変わってくる。
目指すゴール、そのためのスタートラインの違いが、常に記録が更新されている理由のひとつだと考えられる。
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そしてもうひとつが、さらなる水着の進化。それは「高速水着時代の記録が更新された数」を男女で比較すれば明白だ。
世界記録も日本記録も、女子の方が圧倒的に新記録が生まれている。
ポイントは水着面積である。男子は全身を覆う水着を使えていた時代から、現在は腰からヒザ上までしか覆えない。対して女子は、高速水着時代は足首まで水着があったところ、今はヒザ上までになった程度である。
身体を水の中で安定させたり浮かせたりするための大切な体幹部分は、女子選手の水着は現在も覆うことができる。
もちろんレーザーレーサーのようにポリウレタン製のパネルを付けたり、浮くようなラバー製の素材を使用することはできないが、水着の高いサポート能力を発揮させるためには、身体を覆う面積が多い方が良い。
その結果、女子の記録のほうが男子よりも速く高速水着時代を越えていっていると考えられるのである。
再度確認をしておくが、記録はすべて、選手や指導者、現場の人間をサポートする様々な人たちの努力がなければ成り立たない。
その努力の中には、高速水着をはじめとする技術革新が見せた可能性に、選手を中心とした関係者たちが追いつき、追い越そうとした──そんなストーリーがある。
気づけば、レジェンド・北島康介のタイムは、もう日本記録に存在しない。世界では怪物と呼ばれたマイケル・フェルプスの記録は400m個人メドレーしか残っていない。
東京五輪で、瀬戸がマイケル・フェルプスの記録を打ち破ることができたら、本当の意味で日本が高速水着時代を超えたと言えるのかもしれない。
2008年に樹立された松田の200mバタフライ日本記録を更新することで、その布石は打った。瀬戸が時代を変えるその瞬間が、今から待ち遠しい。
(執筆:田坂友暁、編集:日野空斗、黒田俊、デザイン:堤香菜、写真:Getty Images)