高校中退、フリーターだった僕がなぜHOPEを語れるのか

2019/12/5
高校を中退後、モデルを経て留学、米国のUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の神経科学部を飛び級卒業。帰国後、新しい教育を創造すべく「DAncing Einstein」社を設立。脳×教育×ITの掛け合わせで、世界初のNeuroEdTechという分野を研究している。最新の論文から導き出された脳の働きを理解したうえで効果的な教育方法などを研究開発。企業はもちろん学生や教師も巻き込むなど、いま教育界で注目されている若手起業家。
 経歴を見れば「高校中退」の文字。ふと目を横にやると米国の名門大学UCLAを飛び級で卒業し、起業家になっているという不思議なキャリアの人がいます。
 脳神経科学×教育×テクノロジーという分野「NeuroEdTech」を開拓しているDAncing Einstein代表の青砥瑞人さん。
 中編は、青砥さん自身の経験に焦点を当て、「何者でもなかった自分が、いかにしてHOPEに突き動かされたか」を語っていただきます。
 野球に打ち込んだ中高から、体を壊して、高校を中退した青砥さんは、何年もフリーター生活を送る時期もありました。当時はやりたいことがあるわけでもなく、強烈な原体験や成功体験があったわけでもないと言います。では、どのように思考や行動を変え、HOPEを抱き、駆け上がってきたのでしょうか。
脳神経科学からみた、未知を切り拓く「希望」の正体

逃げ出したその先で、「自分はこれでいいのか?」

──前回、「こうしてHOPEを語るようになりましたけど、元々は何者でもなかったし、高校さえ逃げ出した人間」とおっしゃいました。どういうことでしょうか。
青砥瑞人 そうですね。僕は高校まで野球一筋でした。すごくプライドが高くて、高校2年の時点でエース番号をもらって、3年になったら絶対エースになるんだと思っていました。
──エースピッチャーだったんですね。
 高校2年の秋口に肩を壊したんです。なのに弱音を吐けなかった。当時の僕にとっての「良いこと」が、弱音を吐かず我慢して頑張り続けることだったんです。
 でも我慢して投げ続けても、全然良くならなくてすぐに限界がきて。みんなに打ち明けて、すぐに治療でもすればよかったかもしれないですが、ポジションを奪われてベンチで応援とか絶対に嫌だと思って、逃げ出したんです。
──逃げ出した、ですか。
 学校をやめたんです。野球部をやめて初めのうちは通っていましたけど、10年間野球ばっかりしていたから、勉強もできない。野球部の部員から「あいつはもう裏切り者だ」言われてるんじゃないかって勝手に想像して、居場所がなくなるような感覚がつらくって。学校に行きたくなくなって、そのまま退学届を出しました。
 やめてから5年は僕の暗黒時代。コンビニの面接も落ちたりしました。ショックでしたよ。今となっては、高校中退で、真っ黒で、伸びたての坊主のイカつい男がきたら、落ちるかもなって思いますけど(笑)。
──そこからどういう転機があって、海外の名門大学UCLAに留学することになるのですか?
 きっかけは同世代の友人たちがキャリアについて語り出したことでの、大きな焦りが一番ですかね。「自分は本当に何がやりたいんだろう」と。
 そこでもやっぱり野球でした(笑)。僕が人一倍頑張ったのって野球しかなかったんですよ。それで、思い出したのが、「丹田呼吸法」や「瞑想」でした。少年野球の監督が精神面を重視する人で、「試合前に瞑想をするかしないかかで、パフォーマンスが違うな」って不思議に思っていたんです。
 それで、書店に行って本を読んでみると、どうやらメンタルが関わっているらしい。そしてメンタルは脳に関連すると書いてあった。でも、脳についてはあまり触れられていなかった。
 初めて「脳を知りたい!」と思いました。それも強烈に。そこから「脳を知るためには?」「スポーツと絡めるには?」を調べていくうちに、アメリカにたどり着いたんです。特にUCLAはスポーツとか脳神経科学に強くて、色々とおもしろいことをやっていた。

少年時代の自分が、“やりたい”の背中を押した

──いきなり海外挑戦することへの不安や周囲の戸惑いはありましたか。
 周囲は、「高校も出てないのに世界トップクラスの大学に行けるわけないよ」という感じでしたね。冷静に考えればそうなんですけど、当時の僕は「行けるか行けないかは、やるかやらないか。なら、やればいいんだ!」と思っていました。
 そうシンプルに考えられたのは野球のおかげだと思っています。振り返ってみれば野球も最初から上手くいくことなんて何もなかった。守備もバッティングも、訓練を重ねて、全然できないところから少しずつできるようになる。最初はできないことも、努力を重ねることで上達していくんだと。少年野球時代の「成長記憶」が背中を押してくれたんです。
 そこからはもうたくさん行動しました。一度も一人で行ったことない海外に急に1人で行って、授業に潜ってみたりしました。教壇にボイスレコーダーが何十個も置いてあって、世界中から来た多種多様な人々が見たこともないくらい真剣に授業を受けている。衝撃でした。
──そこから日本に帰国して、準備を整えるわけですね。
 そう、さあ渡航準備だと思って調べ始めたら、愕然としました。やっぱり高校の成績が必要だったんです。学力も語学力も学校の成績も、何もかも足りなくて、「ダメじゃん!」と思いましたね(笑)。
 それでも諦められなくて調べてみると、道があった。コミュニティカレッジという2年制大学で優秀な成績を残せれば、年に数人、3年生からUCLAに編入できるんです。さらにこれまでの経歴は考慮されないことが分かり、僕の今までの履歴がリセットされるんだと、まさにHOPEでした。
 コミュニティカレッジに入るのに必要なのはTOEFLだけ。はっきり言って誰でも入れるんです。UCLAとカリキュラムを連携していて、ここのコミュニティカレッジでやる1~2年とUCLAでやる1~2年は同等ですと。
 入ってからはサバイバルですよ、みんな同じように編入したい人が世界中からくる。でもやったらやったことを認めてくれるっていうのがアメリカの社会のすごいところで。
 僕はもうあとがないという思いと、UCLAで勉強したいというHOPEだけで、猛勉強してUCLAに無事入るんですけど、入った後がまた大変でした。世界中から優秀な人たちが脳を学びにきていて、国を背負って来てるやつとかいるんですよ。「俺は将来大統領になるから」とか本気で言うんです。そういうやつらがマジで頑張って勉強しているような集団だったので、すごく刺激的で、大変で、楽しかったです。

解放されて飛び立っていく学生たちが「おもしろい」

──そこから教育という分野に関わるようになったのは、どういったきっかけがあったのでしょうか。
 きっかけは学生との対話ですね。どんどん変化していく様子を見て、可能性が溢れていておもしろいなと思ったんです。
 当時、医者の免許取ろうと思っていたんです。免許を取るまでにはまだもう少し勉強が必要だったので、お金貯めようと思って日本に帰ってきていたんです。一瞬だけコンサルタントもやっていたんですけど、色んな社会と触れ合っていくうちに、日本の学生の目が死んじゃっていることに気付きました。
 東大生、京大生とも関わることが多かったんですけど、「大企業の内定が出ているけど、これでいいのかな」みたいな。まだ20代前半で可能性しかないのに、モヤモヤしたまま終身雇用で人生が決まってしまう。すごくもったいないと思ったんです。
 10人くらいと話したのかな。少しずつ問いかけていく中で、みんな自分がやりたいことを見出して勝手に海外飛び立っていっちゃったんです。これがおもしろくて、そこから教育に興味を持ち始めました。自分自身もなんとかなったし、みんな可能性に溢れているから、HOPEを見出して、内省を促したり、物の見方をポジティブにする。それだけでこんなに変わるんだなと。
──教育に入り込んでいく中で、起業に踏み切ったのはなぜでしょうか。
 やっているところがなかったから、自分で立ち上げました。神経科学が大好きだし、教育や人の成長、ウェルビーイングに興味があったんですけど、結び付けるには自分で立ち上げるしかなかったんです。
 当初は教育をどうにかしたいと思って学校とかに掛け合ってたんですけど、その時はフリーターだったこともあって無視され続けたんです。コンサルタントをする中で貯めたお金で起業準備しようとアメリカを飛び回って最新情報をいっぱい仕入れて、応用しようとやり始めたらまぁ門前払い。どこも取り合ってもらえない。
 どうすればいいかを考えて、信用が大事っぽいことに気付いて、じゃあ株式会社作るかと。
 周りからは「そんなよく分かんないことでどうやってお金生むの」と言われましたけど、そもそもお金を目的に起業していないんです。だから事業計画ゼロで、最初なんてバイトしながらです(笑)。
 そんな状態でも1年くらい続けていると少しずつ成果が出始めて、今は「神経科学ってそんな応用のされ方があるんだ」と世の中に知っていただけるようになってきたかなと思います。
──かなり大変な道のりでしたけど、こうなることはある程度予測できていたりしたのでしょうか。
 どうなるか分かってやったことなんて、1個もないです。お話を聞いていただいてわかるように、全然実績ないですし、最初からHOPE脳だったわけでもない。最初は、見え続けていた「野球で活躍する自分」が見えなくなった時に、想像できない世界に進むのを怖がって逃げました。
 それでも自分と向き合って、この道を選んだ。信じ切れないことの方が多かったけど、それでも楽しかった。ワクワクし続けることができました。
 特別な体験や経験があったわけじゃないと思っています。何度も逃げ出しているし、全部うまくいっているわけでもない。
 HOPEを抱くのに、特別な資格は必要ないんです。そしてHOPEは突然得るものでも、誰かから与えられるものでもない。挑戦するその時々で過去の経験を力に変えることで得るもの、HOPEは自分の中にあるものだと考えています。
──次回は、HOPE脳を鍛えるために必要なことを教えて下さい。
次回「時代を切り拓く力、HOPE脳のつくり方」へつづく
(編集:中島洋一 構成:日野空斗 撮影:西村明展 デザイン:月森恭助)