社会構造の変化やテクノロジーの進化にともない、個人や企業は、新しい考え方や成功モデルへの書き換えが求められている。サイエンスによる答えがコモディティ化した現代では、「正解を出す力」に価値はなく、資本主義社会で評価されてきた能力や資質は、急速に凡庸なものへと変わりつつあるのだ。
 では、私たちはどのようにして「オールドタイプ(旧型の価値観)」から「ニュータイプ(新型の価値観)」へシフトしていけばいいのか。『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』(山口周〔著〕、ダイヤモンド社)より、4回連載でお届けする。(第3回)
「容易にわかる」ことで新しい発見を失っている
世界がどんどん曖昧で複雑で予測不可能になることで、私たちの「わかる」という感覚もまた揺さぶられることになります。
私たちは過去の経験に基づいて形成されたパターン認識能力によって目の前の現実を整理し、理解しようとします。しかし、ますます「VUCA化していく社会」において、短兵急にモノゴトを単純化して理解しようとすれば、すでに変化してしまった現実に対して、過去に形成されたパターンを当てはめて、本来は「わからない」はずの問題を、さも「わかった」ように感じてしまい、現実に対して的外れな対応をしてしまう可能性があります。
特に20世紀の後半においては、要素還元的にモノゴトを単純化して要領よく対処するというオールドタイプの行動様式が「有能さの証」だとされてきたため、いわゆる「優秀な人」とされている人ほど、このミスを犯しがちになります。
しかし、千変万化の止まることがないVUCAな世界において、過去に学習したパターンを当てはめて短兵急に「ああ、あれね。わかってる」と考えたがる性癖は大きな誤謬につながる恐れがあります。
なぜオールドタイプが、すぐに「わかった」と言いたがるかというと、そうすれば評価されるということを経験的に知っているからです。現在の社会では「飲み込みが早い」とか「物わかりがいい」といったことを無批判に礼賛する傾向があり、オールドタイプはまさにこの傾向を一種のバイアスとして利用しているわけです。
特にこういうタイプがたくさん生息しているのが、筆者が長らく関わってきたコンサルティングの業界です。この業界の人々には特有の口癖がいくつかありますが、なかでも「要するに○○ってことでしょ」という口癖は、その筆頭といえるものです。
コンサルタントは、物事を一般化してパターン認識することで「アタマが良いね」と褒められるのが大好きな人種ですから、人の話を聞くと、最後にこのように「まとめたい欲」を抑えることがなかなかできません。
しかし、相手の話の要点を抽出し、一般化してすぐにまとめようというオールドタイプの行動様式は、現在のように環境変化の早い状況では、2つの観点で問題があります。
まず、対話という場面において、話し手が一生懸命にいろいろな説明を交えて説明したのちに、最後に相手から単純化されて「要は○○ってことでしょ」と言われれば、たとえそれが要領を得たものであったとしても、何か消化不良のような、あるいは何か大事なものがこぼれ落ちてしまったような感じがするものです。
私たちが日常的に用いている「言語」はとても目の粗いコミュニケーションツールです。したがって、私たちは、自分の知っていることを100%言語化して他者に伝えることが原理的にできません。
つまり「言葉」によるコミュニケーションでは、常に「大事な何か」がダラダラとこぼれ落ちている可能性がある、ということです。
20世紀に活躍したハンガリー出身の物理学者・社会学者であるマイケル・ポランニーは「我々は、自分が語れること以上にずっと多くのことを知っている」と言い表しています。今日では、この「語れること以上の知識」を私たちは「暗黙知」という概念で日常的に用いていますが、言葉によるコミュニケーションでは常に、この「こぼれ落ち」が発生していることを忘れてはなりません。
「要するに」は、パターンに当てはめるだけの最も浅い理解
さて、話を元に戻せば、この「要するに〇〇ってことでしょ」という聞き方には当の聞き手にとっても問題があります。なぜなら、過去に形成されたパターンに当てはめて短兵急に理解したつもりになってしまうことで、新たなものの見方を獲得したり、世界観を拡大したりする機会を制限してしまうことになるからです。
変化の激しい今日のような時代にあって、このような行動様式は学習を阻害するものであり、まさにオールドタイプのパラダイムと断じるしかありません。
私たちは、無意識レベルにおいて、心の中で「メンタルモデル」を形成します。メンタルモデルというのは、私たち一人一人が心の中に持っている「世界を見る枠組み」のことです。
そして、現実の外的世界から五感を通じて知覚した情報は、そのメンタルモデルで理解できる形にフィルタリング・歪曲された上で受け取られます。
「要するに○○でしょ」というまとめ方は、相手から聞いた話を自分の持っているメンタルモデルに当てはめて理解しているに過ぎません。しかし、そのような聞き方ばかりしていては、「自分が変わる」契機は得られません。
MITのオットー・シャーマーが提唱した「U理論」においては、人とのコミュニケーションにおける聞き方の深さに関して、4つのレベルがあると説明されています。
レベル1:自分の枠内の視点で考える
新しい情報を過去の思い込みの中に流し込む。将来が過去の延長上にあれば有効だが、そうでない場合、状況は壊滅的に悪化する

レベル2:視点が自分と周辺の境界にある
事実を客観的に認識できる。未来が過去の延長上にある場合は有効だが、そうでない場合は本質的な問題にたどり着けず対症療法のモグラ叩きとなる

レベル3:自分の外に視点がある
顧客の感情を、顧客が日常使っている言葉で表現できるほど一体化する。相手とビジネス取引以上の関係を築ける

レベル4:自由な視点
何か大きなものとつながった感覚を得る。理論の積み上げではなく、今まで生きてきた体験、知識が全部つながるような知覚をする
これら4段階のコミュニケーションレベルのうち、「要するに○○でしょ」とまとめるというのは、最も浅い聞き方である「レベル1:ダウンローディング」に過ぎないということがわかります。
このような聞き方では、聞き手はこれまでの枠組みから脱する機会を得ることができません。より深いコミュニケーションによって、相手との対話から深い気づきや創造的な発見・生成を起こすには、「要するに◯◯だ」とパターン認識し、自分の知っている過去のデータと照合することは戒めないといけないのです。
容易に「わかる」ことは、過去の知覚の枠組みを累積的に補強するだけの効果しかありません。本当に自分が変わり、成長するためには、安易に「わかった」と思わず、相手の言っていることを傾聴し、共感することが必要になります。
「わからなさ」の重要性 ── 他者は気づきの契機である
自分を変えるきっかけになるのは「わからない」という状況です。この「わからなさ」の重要性を「他者」という概念を軸足にして、生涯にわたって考察し続けたのが、20世紀に活躍した哲学者のエマニュエル・レヴィナスでした。
レヴィナスのいう「他者」とは、文字通りの「自分以外の人」という意味ではなく「わからない者、理解できない者」という意味です。なぜ、そのような「他者」が重要なのでしょうか。レヴィナスの答えは非常にシンプルです。それは、「他者とは『気づき』の契機である」というものです。
自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている。このとき、他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできます。実際に人類の悲劇の多くは、そのような「自分は正しく、自分の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされています。
このとき、自分と世界の見方を異にする「他者」を、学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分とは異なる世界の見方を獲得できる可能性があります。
インターネットが登場したことで「世界が小さくなった」と、よく言われますね。確かに、それまで往復に数カ月かかることもあった外国との郵便文書が、送信ボタンをクリックすれば一瞬で届く電子メールに取って代わられたことを考えれば、確かに物理世界についてはそのように表現できるかもしれません。
しかし、私たちの心象風景に映写される精神世界は、本当に縮まっているのでしょうか?
自分と似たような教育を受け、自分と似たような政治的態度をもち、自分と似たような経済的水準にある人たちばかりとつるみ、お互いの意見や行動に対して「いいね!」を乱発し続けるようなオールドタイプの行動様式は、私たちの精神世界を「わかりあえる者たち」だけの閉じたものにし、その外側にいる「わかりあえない者たち」を断絶する、あるいはそもそも「存在しないこと」にしてしまう可能性があります。
つまり、インターネットが登場したことで、むしろ私たちは「孤立化・分散化」する恐れがある、ということです。
民主主義は、自分とは違う立場の人がいる、自分とは違う政治的態度の人がいる、ということを認識し、受け入れることで初めて成立します。もし、インターネットの登場によって、自分と同じような人だけでどんどん凝り固まって孤立化していくような社会が生まれることになれば、それは間違いなく民主主義の危機を招くことになります。
インターネットは民主主義を強固にすると能天気に考えている人が多いようですが、インターネットという新しいテクノロジーが、オールドタイプの行動様式と結び付けば、それはむしろ民主主義の根底を危うくするものです。
残念ながら、これはすでにアメリカ・ヨーロッパ・日本において顕著に進行している事態ですが、もしこのようなトレンドがこのまま進むことになれば、私たちはインターネット登場以前よりもはるかに「隔絶した世界」を生きることになります。
しかし、現在の世界はますます価値観が多様化しており、また多くの人が生涯にさまざまな組織やコミュニティと関わって生きていかねばならなくなっています。
このような時代にあって、自分と価値観のフィットする「わかりあえる者」たちだけでコミュニケーションをループさせ、その外側にいる人々を「わからない」と切り捨てることは、私たちの人生から豊かな「学びの契機」を奪い去ることになります。
私たちには短兵急に「わかる」ことを求めるのではなく、逆に排他的に「わからない」と切り捨てるわけでもなく、じっくりと他者の声に耳を傾け、共感するというニュータイプの行動様式が求められています。
(デザイン:月森恭助 バナー写真:Alina Prochan / iStock)
※本記事は書籍『ニュータイプの時代』より抜粋して転載しています