人生の豊かさは 「逃げる」巧拙に左右される
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注目のコメント
冒頭の痛みの下りは、この記事に必要だったのだろうか。
皆で痛みに耐えろという同調圧力の話しをしたかったこともあるのだろうが、後半はほとんど心の痛みの問題なので、痛覚の例から入るのはどうもしっくりこない、いかにも科学的な雰囲気で書かれているが、痛みは人間同士であっても主観と共感でしかないので、他人の痛みのを本当の意味で感じることができないことと、魚や昆虫の痛みを証明できないことは、同レベルの問題だ。
環境に追い詰められている人に対しては、その環境から逃げるというある種の最後の選択肢があって然るべきで、それはオプションであってカードでもある。
私は大学院時代にアカハラに苦労したが、「辞めます」というカードが最も強力な交渉力を生んだ。多様な生き方が可能な現在、従順な部下を失うことは痛手になる。
私はアカデミアから逃げて、「ビジネスパーソン」とかいうよくわからない存在として生きる第2の人生を選んだが、それでも、逃げたことの重い代償を背負い、そして二度と研究室や学会の敷居はまたげないと真剣に思っている。
世界中の文化には、主従関係や婚姻関係の縁を切るための「無縁所」としての機能がどこかに備わっている。
東京という街は「逃げ場」だらけで、大きな不義理を犯しても、隣の街に引っ越せば住む場所も仕事もある。
京都というのはとても狭い街で、どこかで不義理を犯すとコミニュティ全体に知れ渡ってしまい、もう京都には居られなくなってしまう。
義理で構成されているコミニュティにおいては、時として不義理は重い行為で、逃げることは罪になる。
また、土地に生きる人間にとって、生きる事はその土地と不可分になっているので、そう簡単にその場から逃げるという判断をすることはできない。
社会に逃げる余地を残しておく事は、セイフティネットとして重要で、その存在を知らしめることにも意味はあるけれど、一般論として「逃げる」ことを奨励することは、かなり危険をはらんでいるように思う。
自分からは逃げられないのだから。
BENNIE K サンライズ https://youtu.be/oVFg0GsBL6s
いつだって
間違いなんて
笑い飛ばし
迷惑だってかけちゃって
何度だってやり直せる「戦う」「逃げる」という言葉をチョイスしてしまうから、「逃げる」にネガティブなイメージを持ってしまうのですよね。「戦う」と「逃げる」はあくまで手段であって、大事なのはその先にある「勝つ」「負ける」です。戦って勝つのは勿論ですが、逃げて勝つことも沢山あります。そもそも勝ち負けって人によって物差しが違うので、他人が浅い思考で「負け」と思っていても、自分が長期的な戦略上で「価値」だと思っていれば何の問題もありません。