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[週刊ポスト」問題について - 内田樹の研究室

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  • ニッチな金融業

    「人間の本性は『処罰されない』ことが保証されている環境でどうふるまうかによって可視化される」。常に恥ずかしくない人でありたい。


  • 専修大学・経済学部(国際経済) 専任教員

    もちろんこの論はこの論で物凄く筋は通っている。素晴らしいと思う。
    ただし、私は少し異論をはさむ。なお、この記載は(言い方を借りれば)「職を賭してでも」発言したい項目、という訳ではない。

    そうした覚悟を課せる書き物と、そうでない書き物を区別する必要があるのではないか、という点である。
    例えば、大学教員が自分の査読付き論文についてそうした覚悟を持っていない場合には確かに問題であろう。それは後世に残る代物であり、時機として出さない選択は出来るからである。(これは、批判に対しより研鑽を積んで改良することを否定するものではない。)
    恥を承知で書けば、私は自分の2011(平成23)年3月の博論で、対立学派のある論文の引用の抜けがあった。そのことを当事者に謝罪するとともに、2017(平成29)年4月に出た本の1章で公表している。その論文の重要性が分かっていなかった、ということに尽きるが。
    一方、毎週行う授業までそのことを課された場合には、正直授業など持てない、と言わざるを得ない。自分の専門ではない部分の講義もあるからである。また、この講義を後世にかっちり残しているわけではない。もちろん自分の責任において正しいとするものを伝えてはいるが、職を賭して、というものではない。

    線引き、という観点で考えた際に、線引きは2段階ないし3段階くらいは必要。(1)個人名を入れることにより最低限のマナーは必要とする程度の記載(この記載などもそうであるが)、(2)世に「自分の執筆のもの」として公表することでその責任を一定程度負うべき記載、(3)査読論文等のように「後世に残す」ので、それ相応の覚悟を以て書くべき記載、位は分けておかないと、何も言えなくなる事例は少なくない。本来職を賭して、というものは(3)の段階のもの、と言えるだろう。

    そうした観点で書いた場合、週刊誌・月刊誌に関して言えば、極端なことを言えばその記載は翌週や翌月まで回すこともできる。そして、出版物として後世に残る。図書館などでも基本的には閲覧可能である。少なくとも(2)程度の責任は負う必要がある。編集長は執筆者にかわってその原稿を守る責任があるし、それで釈明を入れる位なら公表するな、ということは言えると思う。
    とはいえ、ヘイトを残すなどということを許すわけにもいかない。私は外部から批判するし、休刊をおすすめする。


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