津田大介さん「ジャーナリストとしてのエゴだったのではないか」。“表現の不自由展”中止の責任を痛感 (あいちトリエンナーレ)
コメント
注目のコメント
津田さんはいつ頃から引き返し不可能ラインを超えたのかなぁ。今回の件は自分の価値観の異常さに、明らかに気付いてないとしか思えない。そもそも津田氏は自分をジャーナリストと称しているが、真実は活動家だろう。東京新聞の女性記者と同じ。ジャーナリズムを免罪符に使うのは卑怯と言える。
芸術というものは自由であるべきで、政治的な思想やメッセージの意味合いがあるとしても作品はただの作品でありそれ以上でもそれ以下でもない...とは思うが、この作品や展示に関してはキュレーターの私情が強く出すぎてしまったのだと思う。
キュレーター自身が責任を取れる範囲で、ご自身の範疇で行われる展示であれば中止にすることもないし特に問題なかったと思うが、あいちトリエンナーレという舞台でやるべきではなかったという結果だ。選択した場所や主催の間違いだった。恐らく津田さんは何らかの力によって展示に圧力がかかる事を承知でやってたとは思いますが、それは行政からのものというよりは、電話抗議の方に主眼が置かれていたんじゃないかと推察しています。展示作品のテーマもおおよそ行政と市民の対立というよりは主張者と無名の群衆との対立がテーマになってますからね。
これは京アニの事件が間違いなく尾を引いていて、京アニの件が無ければガソリン脅迫FAXも流れてこなかったでしょうし、行政も動くかどうかちょっとは悩んだと思いますよ。これについては準備期間を考えれば予想できないファクターでしたね。
【追記】
アートが政治、人権、経済と無関係/自由であるべきという話は、どの芸術論の原典を漁っても出てきません。そういう認知をされている方はもうちょっと認識を改める必要があると思います。
いつぞやにもコメントで書きましたが、iPhoneのデザインはルーツを辿ればソビエトのプロパガンダ芸術や近代ロシア文学の世界から派生してるものです。皆さんご存知のウォーホールは資本経済による大量生産や貧困街の落書きにアートを見出しました。
一時の感情や気分で感想を述べるのはご自由ですが、アート/芸術という言葉の定義を誤ってしまっては本当にただの感想にしかならないと思いますよ。