1. アメリカ大統領もローマ法王も顧客

ミネソタ州ミネアポリス近郊にあるスターキー・ヒヤリング・テクノロジーズ本社で働き始めたとき、ブランドン・サワリッチは19歳で、補聴器業界では70社ほどのメーカーが競合していた。
時は1994年。サワリッチの仕事は、修理のために郵送されてきた製品、あるいは使用者が死亡したために必要がなくなったとして返品される補聴器のクリーニング作業だった。
現在、サワリッチは43歳で、世界の主な補聴器メーカーは5社。6000人超の従業員を擁し、2018年に補聴器売上高約8億ドルを記録したスターキーはその一角で、サワリッチは同社の社長だ。
「当社は1974年から、ここエデン・プレイリーに存在しています」。本社を案内してくれながらそう語ったサワリッチは、直ちに発言を訂正する。
「正確に言えば、始まったのはその数年前、ミスター・オースティンの自宅の地下室です。アメリカの偉大な起業サクセスストーリーの1つなんです」
耳垢のついた補聴器の掃除係からイベント担当、販売部門へと転身してきたサワリッチが、社内トップの地位である社長の座を手にしたのは2016年。スターキーを揺るがした不正スキャンダルを受けてのことだった。
サワリッチは「ミスター・オースティン」の義理の息子でもある。
ミスター・オースティンこと、ウィリアム・オースティンはスターキーの創業者で、非公開企業である同社を一大補聴器メーカーに築き上げた大富豪。4人の歴代アメリカ大統領、2人のローマ法王(教皇)、ネルソン・マンデラやマザー・テレサなど、補聴器が必要になった数々の著名人に製品を提供してきた人物だ。

2. デジタル製品に変貌した補聴器

補聴器業界で生き残っている「ビッグ5」のうち、アメリカを拠点とするのはスターキーだけだ。競合企業がここまで減った理由はテクノロジーにあると、サワリッチは言う。
補聴器はかつて、比較的単純かつ製造コストが低い製品で、ブランドは違っても製品自体は似たり寄ったりだった。だが今では、エンジニアのチームと豊富な研究開発費を要する複雑なデジタル製品としての位置づけを強める一方だ。
サワリッチの両耳には、目立たない細いワイヤーがかけられている。耳の穴の中へ続くワイヤーの先にあるのは、マーカーペンの先端ほどのサイズのイヤフォンだ。
「本物の補聴器です」と、サワリッチは話す。「私は軽度の難聴なので」。若いころに大音量で音楽を聴き、射撃をしていたせいだという。
とはいえ、このほとんど見えない小さな補聴器を装着しているのは、これこそがスターキーの最新にして最高の達成だからでもある。
この製品が完成したからこそ、スターキー本社にあるウィリアム・F・オースティン教育センターには2日後、アメリカ各地のトップクラスの聴覚訓練士300人が集合する。彼らは、居並ぶ従業員の歓声と拍手に迎えられて、レッドカーペットを歩く予定だ。

3. 健康トラッキングも27言語の翻訳も

スターキーは誰も欲しがらない製品を作っている。サワリッチは好んでそう語る。
アメリカでは、補聴器を必要とする聴覚障害者の3分の2近くが補聴器を装着していない。補聴器が必要だと自覚した人の場合でも、難聴の兆候が現れてから専門家に助けを求めるまでの期間は平均7年間に及ぶ。
「この製品の誕生によって補聴器は進化します」と、サワリッチは語る。「聴覚障害がなくても、補聴器を着けたくなる時代が来るのです」
大丈夫、あなたの聞き間違い──読み間違いというべきか──ではない。今やスターキーは、補聴器がいらない人のための補聴器を売り出そうとしているのだ。
サワリッチは上着のポケットからiPhoneを取り出し、「スライヴ(Thrive)」というアプリを開く。補聴器分野のパラダイムシフトを狙う新たなデバイス、「リヴィオAI(Livio AI)」のために開発されたアプリだ。その名が示すとおり、リヴィオAIは極小のセンサーに加えて、人工知能を活用している。
邪魔なノイズを選択して取り除き、特定の音源(たとえば、混み合うレストランでテーブルの向かいに座っている人の声)に焦点を当てるばかりか、各種の健康指標をトラッキングし、歩数や上った階段の段数、他者との会話や交流といった認知活動の度合いを測定してくれる。
それだけではない。27の言語をほぼ同時翻訳してくれるうえに、近く予定されるアップデートによって心拍数の計測も行えるようになる。
これだけの機能となれば、もちろん値段もレベルが違う。担当医師にもよるが、1台当たりの価格は2500~3000ドル、あるいはそれ以上だ。

4. 詐欺事件の泥沼からの再生

「今後5~7年以内に、補聴器は映画『アイアンマン』に出てくる(人工知能の)ジャーヴィスのようになります」と、サワリッチは言う。
「装着者のパーソナル・アシスタントになってくれるのです。身体状態について知りたいこと、心拍数や血圧、血糖値のことをよりよく知る存在になる。耳こそ、次世代の手首です」
医療用ウェアラブル技術業界にいる人間だけが平気で言える、ばかげたスローガンなのか──。いや、じつはそれほど突飛な考えではない。耳は小児科医が患者の体温を測る場所。心拍数や平衡感覚の測定にもぴったりの部位だ。
だからこそ、リヴィオはユーザーの転倒を検知することもできる。転倒後、本人が数秒以内に「スライヴ」に無事を伝えない場合には、救援を要請してくれる。
サワリッチに言わせると、スターキーは再生した企業だ。その背景には、同社の元社長や元最高財務責任者(CFO)が被害額2000万ドル超規模の横領罪で起訴され、有罪判決を受けた大掛かりな詐欺事件を受けて、再生を迫られたという事情もあった。
2018年前半に裁判が行われたこの事件は、地元メディアの注目を浴びた。裁判で証言台に立った創業者のオースティンも、サワリッチも大変な恥辱を受けた。
サワリッチはこれまで、この件について語ったことがない。「振り返ったり、事件のことを考えたりするのがいやなんです。思い出すと、気分が悪くなる」
被告側は裁判で、オースティンとサワリッチの顔に泥を塗り、2人は被害者とはいえ好感が持てない人物だと陪審員に印象づけようとする戦略を展開したのではないか。そう指摘すると、サワリッチはこう答えた。「『しようとした』のではないと思う。そうしたんです」

5. 部門再編、組織体制も見直し

本社内を歩く私たちは、広いコーナーオフィスにさしかかった。部屋の中には、12台のデスクが詰め込まれている。
「ここは当社の元社長のオフィスでした」と、サワリッチが告げる。スターキー元社長のジェローム・ルジカはかつて、サワリッチがメンターと仰いだ人物でもあった。
「私の息子には、彼の名前を付けました。このことは知らない人も多いですが、ウィリアム・ジョージ・ジェローム・サワリッチ、と」。そう言って、彼はため息をつく。「あの人たちの多くは何十年もこの会社にいたんです。家族と同じだった。私は彼らを尊敬していました。あの人たちのようになりたかった」
サワリッチはコーナーオフィスのほうへ手を振る。「私が一刻も早くあの部屋を自分のものにしたがっていると、みんなが思っていました。でも、あの部屋とはかかわりたくない」。だから、オフィス内の設備をすべて運び出させ、先端テクノロジー事業に携わるエンジニア用の部屋にした。
社内では多くのものが刷新されたという。ソフトウェアシステムが入れ替えられ、部門の再編が行われ、組織体制も見直された。イスラエルのテルアビブに技術センターを開設し、600に上ったプロジェクトの数を3分の2の規模にまで絞った。
さらに、新たな人材も迎えた。現在の首席法律顧問はサン・カントリー航空の出身で、最高執行責任者はゼネラル・エレクトリック(GE)から、最高技術責任者はインテルから引き抜いた。
「この2年間にスターキーはより健全で力強い企業になり、特化方針を強めています」と、サワリッチは語る。「かつて起きたことが起こらなければよかったとは思う。でも、ことわざにあるように、1つのドアが閉まっても別のドアが開くものです」

6. 創業者は77歳「働き盛り」の大富豪

ウィリアム・オースティンはたいてい、次の3つの場所のどこかにいる。
途上国のテントの中で地元住民のために補聴器の調整をしているか、ガルフストリーム社の自家用ジェットで次の目的地である途上国へ移動しているか、スターキー本社内の自分のオフィスの先にある「ビルの車輪」というあだ名の研磨装置の前にいるか、だ。
今週、オースティンがいるのは3番目の場所だ。
自身と妻のタニが率いる「スターキーきこえの財団」の活動の一環として、3週間でアフリカ9カ国を巡り、1万2000人に補聴器を提供する旅から数日前に帰国したばかり。さっそく戻った仕事場で、トレードマークである黒のスニーカーと黒のパンツ、黒のシャツに白衣姿で作業にいそしんでいる。
自分の望みは補聴器いじりをすることだけだ。淡いブルーの目に、笑い上戸であることを示す深いしわ、ドラキュラのような生え際のがっちり固めた白髪が印象的なオースティンはそう語る。
77歳で大富豪なのに、なぜリタイア生活を満喫しようとしないのか。タニによれば、夫は仕事が「楽しくてしょうがない」状態で、携帯電話の電源を忘れずに入れてと注意しないと、いいかげん帰ってきなさいと伝えたくても電話がつながらないという。
「『ビル、おもちゃを置く時間よ』と教えないとだめなんです。腰を痛めるわよって。昨日の夜も、10時半にそう言ってやりました」
「働くのが好きなんだ」と、オースティンは話す。「人々を助けるという意義を与えてくれる。そもそも、それがしたくてこの活動を始めたんだから」

7.『プレイボーイ』誌の創刊者がやって来た日

サワリッチが「聴覚のメイヨー・クリニック〔訳注:ミネソタ州にある著名な総合病院で、世界各地の著名人を患者として迎えている〕」と呼ぶこの場所には、聴覚障害のあるセレブが続々と詰め掛けている。
歌手のフランク・シナトラやエルトン・ジョン、俳優のスティーヴ・マーティン、ポール・ニューマン、チャック・ノリス、世界で初めて音速の壁を超えた米軍パイロットのチャック・イェーガー、キャスターのウォルター・クロンカイト、ウォーターゲート事件の調査報道で知られるボブ・ウッドワード、何人もの宇宙飛行士──。
社内には、ウィリアム・オースティンの「魔法」を求めてやってきたセレブの顔写真がずらりと並ぶ。
少し前には、ミュージシャンのジーン・シモンズとダライ・ラマ14世が同じ日にここを訪れた。『プレイボーイ』誌の創刊者ヒュー・ヘフナーと、メガチャーチ(巨大教会)の牧師ロバート・シューラーの訪問が同じ日に重なったこともある。
「もちろん、ロバートにそのことは言わなかった」と、オースティンは振り返る。「話したら、私の手は悪魔に触れた手だと思われるからね」

8. シュバイツァー博士にあこがれて

オースティンとは翌日、もっとちゃんとした形で話をする予定になっている。今はただ、挨拶をするために立ち寄っただけだ。しかし、このスターキーの創業者が一度その気になったら、もう止めたくても止まらない。
「誰よりも多く、耳を手掛けてきた。数で私に並ぶ者はいない。誰も私の10分の1にも、ごく一部にも及ばない。だが、それでいい。誰もやりたくないんだ。優れたゴルファーになりたい人、優れたスキー選手になりたい人はたくさんいる。地味な仕事をしたい者は多くない」
「それじゃ、ビル」と、サワリッチが言う。「また後で──」
「私はほかのことがやりたかった」。オースティンは自分史を語り出す。「この手で人の命を救い、アルベルト・シュバイツァーのような伝道活動をする医師になるつもりだった」
医大への進学資金を稼ごうと夜間に補聴器の修理をしていた頃、年老いた男性が助けてほしいとやってきた。
「ほかの人には無理だったが、私には彼が聞こえるようにする手助けができた。聞こえることが彼にとってどれほど重要か、そのときの表情から伝わってきた」
その夜、自宅への帰り道で見かけたバスの側面にあった文章を目にして、これは自分をより価値ある使命へと促すメッセージだと、オースティンは思った。寝る前に、彼は座って自分に話しかけた。
「ビル、おまえが医者になりたいのは、医者になれば人を助けられるからだ、と」

9.「業界の大手になるのは運命だった」

とはいえ、医師は患者をつねに治せるわけではなく、よくても1日に25人程度の力にしかなれない。
「突然、私という個人には限界があると気づいた。自分の未来がありありと目に浮かんだ──トランス状態に陥ったみたいに。自分が墓穴の中にいて、周囲に人が立っていて、ある男がこう言う。『いい医者でした。私たちのコミュニティの力になってくれました』」
もう、本当に行かないと……。サワリッチが身振りでそう示すと、オースティンが手を打ち鳴らす。
「こんなふうに墓穴から出たんだ。これからどうするかはわかっていた。学校を辞めて、ビジネスを始めた。この会社が業界の大手になるのは運命だった。私たちの目的は金儲けではなく、よりよい貢献をすることだったんだから。それこそが日々の目標だった。
それから、貧しい人々にはチャンスが必要だと考えて財団の仕事をするようになり、私は少しばかり脇道にそれた。何年も世界中を旅していた」
彼が語っているのは、もはや自分の半生だけではない。彼はあの事件、自分の会社を崩壊させかけた出来事について話し始めている。
「今は元に戻った。一連のことで私の見方は変わった。私たちは今、また楽しむようになっているし、好きなことをしている」
※ 続きは明日掲載予定です。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Josh Dean記者、翻訳:服部真琴、写真:©2019 Bloomberg L.P)
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This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.