ハーバード大学で絶大な人気を誇る東洋思想の講座がある。教壇に立つのは、マイケル・ピュエット教授。カレッジ教授賞の受賞歴を持つ彼が学生に求めるのは、授業を通じて、ただ古代哲学者の思想と格闘するだけではなく、自分自身や自分の生きる世界について根本的な前提を問い直してみることだ。

本連載では、ピュエット教授のエッセンスを書籍化した『ハーバードの人生が変わる東洋哲学 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』から、その一部を紹介する。

伝統から「解放」された時代の不安

わたしたちの多くは自分が本質的に自由だと考え、祖先にはそのような自由はなかったと思っている。
一九世紀に伝統的な世界から離脱した西洋人は、その後、世界をどう編成するか自分で決定する力をついに手に入れた。人々は二世紀を費やして、競合するさまざまな政治社会思想に取り組んだ。社会主義、ファシズム、共産主義、民主制資本主義などだ。
そして、一つを残してほかの思想の威信が失墜したあと、ついに「歴史の終わり」にたどり着いた。一九八九年にベルリンの壁が崩壊するとともに、世界に秩序をもたらす正しい方法、すなわち人類の繁栄と成功を実現するのにもっともふさわしい方法として、新自由主義が勝利をおさめたかに見えた。
しかし、だとすれば、先進世界で急増している不満や自己中心主義や不安をどう考えればいいのだろう。
わたしたちは勤勉が成功につながると教わるが、それでも、貧富の格差は急速に拡大し、社会的流動性は低下している。生活はありとあらゆる夢のようなすばらしい技術によって快適になり、医学はかつてない進歩を遂げたにもかかわらず、わたしたちは恐ろしい規模の環境上、人道上の危機に直面している。
数十年を経て、わたしたちの大いなる楽観主義は影をひそめた。もはや、世界を構築してきた自分たちのやり方に以前ほど自信がもてなくなっている。
では、わたしたちはどれだけのことを解き明かしたといえるのだろう。未来の歴史学者は現代を振り返って、繁栄と平等と自由と幸福の時代と考えるだろうか。
それとも、二一世紀初頭を無頓着の時代と定義するだろうか。人々が不幸で満たされなかった時代、危機の増大を目の当たりにしながら、実現可能な代替案がないからとなんの対応措置もとらなかった時代だったと。

よい人生を送る方法を考える「思想」

本書で紹介する中国哲学の文言は、この無頓着の時代に代替案を示してくれる。
しかし、代替案といっても理路整然とした政治社会思想などではなく、たとえば民主主義に取ってかわるものとは違う。むしろ、直観とは相いれない、自己や、世界のなかでの自己の役割についての観念だ。その多くは、なんらかの包括的な思想体系に従って生きるという考え方に対抗するなかで練りあげられた。
およそ紀元前六〇〇年から紀元前二〇〇年にかけて、ユーラシアのいたるところで哲学運動や宗教運動が起こり、人類が繁栄するための多種多様の展望がひらけた。のちに枢軸時代と呼ばれるようになるこの精神変革の時代には、ギリシアで発展した思想の多くが中国でも出現したし、その逆の場合もあった。
実際、この本でも触れているが、今日の西洋で一般にいきわたっている信条とそっくりなものが中国でも生まれていた。ところが、中国ではそのような思想は敗北し、これに対抗してまったく異なる行路でよい人生へ向かうことを主張する別の思想が出現した。
ここで取りあげるどんな概念も、「西洋」と「中国」を対立させて、これは中国式のものの見方だというとらえ方をすべきではないし、同じように、伝統的な思想と近代的な思想を対立させて考えるべきではない。
じっくり掘りさげるなかで、人々が近代のずっと以前から世界に秩序をもたらす最善の方法を議論してきたこと、さらには、よい人生を送る方法を考えるうえで、真にかわりになりうる思想があることがわかるはずだ。

幸福と繁栄は理性と計算で手に入るか

西洋では幸福と繁栄のために計画を立てるとなると、理性に頼るよう教えられ、慎重に計算すれば解答に行き着けるとだれもが信じている。
人生の不確実さに直面しても、感情や偏見を乗り越え、自分の経験を測定可能なデータに落とし込めば、チャンスを自在にあやつったり運命に逆らったりできると信じることで安心を得る。
道徳・倫理上のジレンマに取り組むとき、もっとも人気のある方法を見てみよう。象徴的な架空の状況を想定し、徹底して理性的に考える。
よく知られるトロッコ問題では、まず、操車場にいるところを想像する。そこへ暴走したトロッコが近づいてくる。このままでは線路上にいる五人がひかれてしまう。ポイントを切り替えればトロッコを別の線路に向けることができるのだが、その線路上にはもう一人が横たわっている。
はたしてきみは、トロッコがそのまま五人に突っ込んでいくにまかせるだろうか。それともポイントを切り替えて五人を救い、横たわっている一人をひき殺す結果をまねくほうを積極的に選ぶだろうか。
どうするのが正しいことなのか。
この種の問いは、生涯をかけるほど哲学者や倫理学者を夢中にさせている。関連する論文が数えきれないほど発表されているし、書籍さえ出版されている。このシナリオによって、意思決定を単一のデータと択一の決定に単純化できる。意思決定はこのようになされるものだと、わたしたちのほとんどが思っている。

トロッコ問題など考えても意味がない

こういった思考実験は古代中国でもおこなわれた。ところが、本書の思想家たちはそれほど興味を示さなかった。よくできた知的ゲームではあるけれど、朝から晩までこのようなゲームに興じても、日々の平凡な暮らしをどう生きるかになんの影響も与えないと見切りをつけ、まったくの役立たずと断じた。
自分は人生をこう生きていると頭で考えていても、それは実際の自分の生きざまではない。自分はこんなふうに決断をくだしていると頭で考えていても、それは実際の自分の流儀ではない。
ある日、ふと気づいたら操車場にいて、突進してくるトロッコにだれかがひき殺されそうになっているとしても、きみがどう対応するかは理性的な計算などとはいっさい無縁だろう。
このような状況では感情や本能が支配権を握る。感情や本能は、そこまで反射的でない決断をくだす場合にも指針として働き、自分ではとても慎重に理性的に決断しているつもりのとき──夕食はなにがいいかな? どこに住もうかな? だれと結婚すべきかな?──でさえ影響をおよぼす。
中国の思想家は、このようなやり方に限界があると気づき、別の方法を模索した。
本書の思想家たちにとって、その答えは、本能を研ぎ澄まし、感情を鍛錬し、たえまない自己修養に励むことにあった。そうすれば、やがて、重大な局面であれ、ありふれた場面であれ、個々の具体的な状況に対して倫理にかなった正しい反応ができるようになると考えた。
そのような反応は、まわりの人の好反応を引き出すことにもなる。こうしてあらゆる出会いや経験が、新しいよりよい世界を積極的につくり出すチャンスになると思想家たちは説いた。

「ありのままの自分」を受け入れるな

以前の貴族階級を支えた宗教組織が崩壊したあと、枢軸時代の人々は、新たに真実と意味を与えてくれるものを探しはじめた。同様に、今の時代も、わたしたちはこれまでの窮屈な考え方を打破したと感じ、新たに意味を与えてくれるものを探している。
高次の真理を内面に求めよと教えられることがとみに増えた。自己実現者の目標は、自己を見つけることであり、内なる真に従って自己の人生を「忠実に」生きることだとされる。
これが危険なのは、だれもが自分の「真」の姿を見ればそれとわかるはずだと信じ、その真実に従って人生を規定してしまうことにある。自己を定義することにこだわりすぎると、ごくせまい意味に限定した自己──自分で強み、弱み、得手、不得手だと思っていること──を基盤に未来を築いてしまうおそれがある。
中国の思想家なら、これでは自分の可能性のほんの一部しか見ていないことになると言うだろう。
わたしたちは、特定の時と場所であらわれる限られた感情だけをもって自分の特徴だと思い込み、それが死ぬまで変わらないものと考えてしまう。人間性を画一的なものと見なしたとたん、自分の可能性をみずから限定することになる。
しかし、中国の思想家なら、人は単一の均質な存在ではないし、そのようにとらえるべきではないと言うはずだ。
たとえば、きみが自分のことを短気で怒りっぽい人間だと思っているとする。「まあ、これが自分だから」とひらきなおって、ありのままの自分を受け入れるようなことはするなと、本書の思想家たちはたしなめるはずだ。
いずれわかるように、たぶんきみは生まれつき怒りっぽい人間ではない。おそらく、たんに行動がパターン化してしまい、自分の思う自己像がそのまま自分の特徴になるのを受け入れてしまっているだけだ。もともときみは、怒りっぽくなりうるのと同じだけ、たとえば温和になったり寛大になったりする可能性を秘めている。

行く手に立ちふさがるのは自分自身

中国の思想家は、どの人もみんな複雑で、たえず変化する存在であることに早く気づけと説くにちがいない。一人ひとりに、さまざまな、時に相反する感情の傾向や、願望や、世界への反応の仕方がある。
わたしたちの感情は、内にではなく外に目を向けることで引き出される。世間のしがらみを断って瞑想したり旅に出たりしても養われない。日々の営み、つまり他者とかかわったり行動したりすることで実地に形づくられる。
言いかえると、ありのままの自分だけが自分なのではない。いつでも積極的に自分自身をよりよい人間へと成長させることができる。
もちろん簡単ではない。自分の力量について、そして本当の変化がいかにして起こるかについて、意識から改革しなければならない。また、一足飛びにできるものでもない。変化は不屈の努力によって徐々にやってくる。
鍛錬を積んで視野を広げ、複雑に絡み合いながらその時々で状況を決定づける要因(自分の置かれた人間関係や、つき合っている仲間、就いている仕事など、さまざまな生活環境)を把握し、周囲のあらゆるものとのかかわりを時間をかけて変えていくことが成長につながる。
広い視野でさまざまな見地から眺めれば、ゆっくりした真の変化をもたらす行動がとれるようになる。
真の自由は自分が中核の部分では何者であるか発見することで得られるとわたしたちは教わるが、その「発見」こそ、これほど多くの人を無頓着の時代に閉じ込めてきたものの正体だ。わたしたちの行く手に立ちふさがっているのは、わたしたち自身にほかならない。
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それでは、いかに生き、どう世界を秩序づけるか、根本から新たに計画しなおすことになるのだろうか。そうではなく、むしろ本書に登場する思想家は、たびたび日々の暮らしのなんでもないことを通じて自分たちの考えを説明し、日常でこそ大きな変化が起きるのだと説いた。
その例にならい、この本では日常的な例をふんだんに交えて古代の思想に命を吹き込んだ。とはいえ、思想家たちは指針を与えるために具体例を引き合いに出したわけではないし、わたしたちにもそのような意図はない。例を引いたのは、その多くをわたしたちがすでに実践していると示すためだ。
ただし、あまりうまくは実践できていない。例にあげたような暮らしのなかのなんでもないことを振り返ってみるなかで、中国思想がいかに実用的で実践可能な考えなのかがわかるはずだ。
この本の題名(原題The Path)は、しばしば中国の思想家が〈道(タオ)〉と呼んだ概念からきている。道は、わたしたちが努力して従うべき調和のとれた「理想」ではない。そうではなく、道は、自分の選択や行動や人間関係によってたえまなく形づくっていく行路だ。わたしたちは人生の一瞬一瞬で新たに道を生み出している。
道には、本書のすべての思想家が賛同しただろう統一されたとらえ方というものは存在しなかった。思想家たちはそろって当時の社会の慣習に反論したが、人がいかにして人生の行路をひらくかという点では、それぞれが大きく異なるとらえ方をした。
それでも、意見が一致する点が一つあった。行路を切りひらく過程そのものが、自分と自分の生きる世界を変える無限の可能性を秘めているという点だ。
※ 次回は日曜日掲載予定です。
(バナーデザイン:大橋智子、写真:Pgiam/iStock)
本記事は『ハーバードの人生が変わる東洋哲学 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』(マイケル・ピュエット&クリスティーン・グロス=ロー〔著〕、熊谷 淳子〔訳〕、早川書房)の転載である。