鄧小平がもたらした経済大国への道

毛沢東が主導した文化大革命の時代──。
当時12歳だったフレッド・フーは、科学の先生が教室から連行されていくのを目撃した。その教師の恐怖におののいた目を一生忘れられないという。田舎の貧困から抜け出し、ジャーナリストか教師になりたいというフーの夢は絶たれたように思えた。
だが2年後、鄧小平が最高指導者の座に就くと、大学入試が復活。フーの夢にも希望が見えてきた。「混乱が終わり、新しい時代の始まりでした」
フーは中国の清華大学と米ハーバード大学で修士号を取得し、国際通貨基金(IMF)で働いたのち、ゴールドマン・サックスの中国部門を率いた。その後、北京にプライベート・エクイティ・ファンド「プリマベーラ・キャピタル」を設立した。
フーだけではない。当時、大勢の中国人が田舎を出て都市部へ移り、ビジネスを始めたり工場で働きだしたりした。そうした工場の数々が中国を世界第二位の経済大国へと押し上げることに貢献したのである。

習は「改革開放」の終結を目指す

鄧小平の「改革開放」政策は40年前、1978年12月18日に開催された中国共産党中央委員会全体会議で打ち出された。歴史上、最も多くの富を生んだ政策のひとつであり、7億人以上を貧困から救ったとされる。
一方、この改革開放路線への転換は今日の中国が直面している多くの問題の種をまいたともいえる。1993年からの20年間、江沢民とそれに続く胡錦濤体制のもと、なりふり構わぬ経済発展を遂げた結果、河川は汚染され、空はスモッグで覆われ、財政赤字は膨らんだ。
2013年、習近平が国家主席の座に就くと、多くの人は習も改革開放路線を踏襲するだろうと期待した。しかし、鄧は市場経済に基づく改革で経済発展を目指したのに対し、習は中国を政治的・技術的超大国にするためにとして、国家によるコントロールを再び強めた。
香港の金融調査会社「ギャブカル・ドラゴノミクス」の共同設立者アーサー・クローバーは言う。「習の包括的目標のひとつは、経済運営という意味では、鄧小平の改革時代を終わらせることだ。公式にとは言わないまでも、事実上の終結宣言を目指している」
クローバーによれば、鄧と後継者たちは経済における民間企業の役割を拡大して国の権限を縮小したが、習は現在のバランスが適切だと考えているという。

「中所得国の罠」と米中貿易戦争

目立たないよう身を潜めて好機を待てという鄧の教えに逆らい、習はドナルド・トランプ米大統領をはじめ世界の首脳たちと正面からぶつかっている。中国政府が国内市場を外資に開放しないことに、世界の指導者たちは何年も前からいら立っていた。
こうした対立は、習にとっては初めて経験する政策上のつまずきであり、国内では珍しく批判の声も高まっている。鄧小平の息子でさえ、2018年10月の演説で暗に習を非難した。政府は「自制心を保ち、身の程を知るべきだ」と。
米中貿易戦争はまた、中国が重大な局面を迎えているときに起きてしまった。習政権はいま、途上国が経済発展して先進国の仲間入りをする前に成長が鈍化する「中所得国の罠」を回避しようとしているところなのだ。
世界銀行によれば、1960年以降の東アジアでこの罠から逃れることができた国と地域は5つしかない。日本、香港、シンガポール、韓国、台湾だ。
ここに仲間入りするためには、習は中国市場に変化をもたらす必要がある。金融サービスにもっと競争を導入し、テクノロジーをアップグレードし、コーポレートガバナンスを強化しつつ、米政府との貿易戦争も戦わなければならないのだ。
加えて、労働力の高齢化、民間企業と政府の赤字拡大、環境汚染といった問題が、習の挑戦をさらに困難なものとしている。
「民主主義ではない経済大国が中所得国の罠を回避できた例はない。だから貿易戦争がなかったとしても、中国には不利な状況だ」
そう指摘するのは、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)の中国研究ディレクターを務めるスティーブ・ツァンだ。「鄧が提唱した開放路線の放棄は、欧米諸国、とりわけアメリカにとって警報が鳴らされたのと同じだ」

リップサービスの裏で規制強化

中国が中所得国の罠を回避できるかどうかは、鄧の時代に地方から都市部に出たり起業したりした人々の遺産にかかっているだろう。
習の経済顧問を務める劉鶴副首相によれば、中国では現在、GDPの60%、技術革新の70%、新規雇用の90%を民間セクターが占めている。
こうした民間企業の多くは、習のデレバレッジ(債務圧縮)政策や環境汚染対策は自分たちに向けた攻撃だと感じている。シャドーバンキング(影の銀行)の取り締まり強化によって資金調達は困難になったし、環境を汚染したとして業務停止命令を受けた小規模企業も数え切れないほどある。
一方で、そうした民間セクターの苦境を救うために、銀行に企業融資を促すという前例のない政策が今年取られた。ただ、その効果はあまりみられないと、プリマベーラ・キャピタルのフーは言う。
民間セクターに対する政策は、全面的に支援するというリップサービスの裏で規制を強化するなど「一貫性のないものになっている」と、フーは指摘する。「政府に必要なのは、いまだ起業家たちの自由を奪っている拘束衣を取り除くことだ。まだ多くの規制、ばかげた規制が残っている」

中国は「高品質低価格」を提供できる

中国の起業家たちの成功と挑戦が最もよく見てとれる場所は、広東省の深センだろう。この40年ほどの間に、漁村から製造業の街へ、そしてテックハブへと進化した地域だ。
湖北省・武漢出身のアンディ・ユーは深センでの成功の体現者である。彼は2003年に深センのテクノロジー企業で働き始め、その数年後に「深セン・ガーラント・テクノロジー・デベロップメント」を設立した。
「中国は安いがらくたしか作れないと言う人たちもいるが、それは違う」と、ユーは言う。「中国は高品質な製品も製造できる。だからアップルなどの会社がここに工場を置いている。中国ほど質の良さに対して価格が良心的なところはない」
ユーは、その高品質低価格のおかげでトランプ政権の関税も障害にはならないと一蹴する。深セン・ガーラントの年間売上高1億5000万ドルの約20%をアメリカが占める。関税が10%から25%に引き上げられれば、その対象となる。
だがユーは、コスト増額分は商品価格に上乗せすると話す。欧米のライバル企業はもっと高い価格で販売しているし、東南アジアや中南米の製品は技術的にかなり遅れているから大丈夫だという。
深セン・ガーラントはデザインとマーケティングは今も深センで行っているが、300人の労働者を抱える工場は賃金の安い内陸部の湖北省に移してある。ユーによれば、新たな工場をミャンマーとの国境に近い中国西部に建設することを検討中だという。より安い労働力としてミャンマーからの移民を雇用するためだ。

イノベーションが阻害される危険

習政権は最先端テクノロジーで世界をリードすることを目指す戦略「中国製造2025」を掲げている。この目標を達成するには、ハイスペックの携帯電話やラップトップを製造する以上のことが必要だ。
しかし、政府による支配の強化や融資に対する規制の厳格化は、イノベーションを抑制しかねない。
「スタートアップの黄金時代は2018年に終わった」と語るのは、若手起業家のワン・ガオナンだ。「いま出資者を見つけるのは不可能に近い。私が大学を2012年ではなく2015年に卒業していたとしたら、時機を逃していただろう」
ワンは、カリフォルニア州立大学バークレー校でインダストリアル・エンジニアリングの修士号を取得した後、北京で「キャップストーン・ゲームズ」を立ち上げた。中国のApp Storeで人気のサッカーゲームを制作している。2013年の設立以来、売上高は毎年2倍以上増加し、現在は1億5000万元(約24億円)に達している。
子どものゲーム依存を懸念する中国政府が、新ゲームのリリースに厳しくなっているなか、ワンは国外に目を向け始めた。キャップストーンは3月に英国でアプリをリリース予定だ。

2020年まで成長率5%を維持できるか

民間企業の締め付けを強め、国有企業や政府系銀行に対しても共産党の支配力を高めようとしている習政権。その政策は中国経済にどんな影響を及ぼすのか──。
ニューヨーク大学教授でノーベル経済学賞受賞者でもあるマイケル・スペンスは、現時点で評価を下すのは難しいとしながらも、こう指摘する。「やり過ぎると、イノベーションに対する逆風を引き起こす可能性がある」
スペンスは一方で、政治的逆風や貿易問題があったとしても、中国はそのデジタル経済とハイテク産業によって先進国への道を進むだろうと語る。「中国の進度はスローダウンするだろうが、おそらく脱線することはない」
中国経済の2018年第3四半期の成長率は6.5%。2009年の世界金融危機以降で最も低かった。だが、中国が成長率5%以上を維持しながら2020年代に突入すれば、一人当たり国民所得が先進国並みになるだろうと、ギャブカル・ドラゴノミクスのクローバーは言う。
とはいえ、平均所得は全体像の一部でしかない。半世紀以上前にフレッド・フー少年の教師が連行された湖南省の小さな田舎町では、中国経済の急成長が生んだ格差がはっきりと表れている。

教育格差、高齢化問題が進化の妨げに

フーが通っていた中学校の壁の塗装ははがれ落ち、暖房は必要最小限しか入っていない。寒い12月、生徒たちはコートを着たまま授業を受けている。
都市部に比べて教育水準は低いと、古参の教師は言う。生徒の約80%は「置いていかれた子どもたち」だ。両親が高賃金の職を求めて産業の盛んな沿岸都市へ移り、残された子どもの世話は祖父母や親戚が担っている。
「中国は最も重要な資産、つまり国民への投資を怠っている」と、スタンフォード大学の経済学者スコット・ロゼルは指摘する。
中国の2015年の国勢調査によれば、労働者人口のわずか30%しか高校を卒業していない。これは、メキシコや南アフリカ、タイなど中所得国のなかで最低の割合だ。中国は教育水準が低くても「世界の工場」になるのに問題はなかったが、より進化した知識集約型経済を目指すには間違いなく妨げになるだろう。
教育に加えて、高齢化の問題もある。医療費の増大は中国経済に重くのしかかってくるだろう。
フーの「プリマベーラ・キャピタル」は、オンライン金融サービスを提供する「アント・フィナンシャル」やクラウドサービスの「シュンレイ」などのニューエコノミー企業に投資している。
中国人起業家のクリエイティビティ、イノベーション、ビジョンは、シリコンバレーをはじめ世界のテックハブの起業家たちに劣らないと、フーは言う。中国はそのうち先進国の仲間入りをすると信じているフーだが、習政権の政策の方向性には懸念を強めている。
「中国は正しい軌道に乗っているが、鄧小平が40年前に始めた改革を加速させるのか、それとも減速したり後退したりするのか、誰もが知りがたかっている。改革がなければ、中国経済はその潜在力を十分に発揮できないかもしれない」
原文はこちら(英語)。
(執筆:Bloomberg News、翻訳:中村エマ、写真:©2018 Bloomberg L.P)
©2018 Bloomberg L.P
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.