ゼロ金利政策の行き詰まり

日本の金融政策は強力な薬で命をつないでいるが、厄介な副作用も生じている。新しい治療法を考える最初の一歩は、シンプルな疑問から始めるべきだろう──日本銀行が紙幣の印刷機を完全に止めたら、どうなるだろうか。
日銀の資金供給量はこの5年で3倍以上に増えているが、2%の物価上昇率の目標(インフレターゲット)を達成できそうな兆しはない。低金利の資金をたっぷり吸収している日本経済に、さらに円を注ぎ込む代わりに、現金の撤廃を考える時期かもしれない。
日本がデフレに滑り落ちることを積極的に防いでこなかったという意味で、歴代の日銀総裁には相応の責任がある。とはいえ、現在の黒田東彦総裁を臆病だと批判するのも違うだろう。
2013年4月に日銀総裁に就任した黒田氏は、最初の金融政策決定会合で大幅な金融緩和に踏み切った。以来、日銀は国債の買い入れを増やし、発行残高に占める割合は12%から48%までになった。
フィンテックのスタートアップ、スマートカルマで財務分析を発表しているアナリストのトラビス・ランディによると、日銀は日本の上場企業の約4割で上位10位以内の大株主になっている。
2016年1月、黒田総裁は日本企業のデフレ心理を払拭するとして、さらに大胆な政策を打った。デンマーク、スウェーデン、スイス、ユーロ圏に続き、マイナス金利の導入に踏み切ったのだ。
しかし、2年近くが経っても足踏み状態が続いている。20年以上続くゼロ金利政策が行き詰まっていることは、言うまでもない。18年6月の全国消費者物価指数(生鮮食品を除く)は、前年同月比0.8%の上昇だった。
一方で、18年5月の完全失業率(季節調整値)は2.2%と、25年7カ月ぶりの低水準。ブルームバーグ・インテシジェンスのエコノミスト、増島雄樹氏によると、理論上のインフレ率は1.5%近くに達してもおかしくない。

経済全体に広がる疲労と悲観論

インフレターゲットを達成できないことだけはない。日本の銀行の採算性悪化を見ても、マイナス金利の副作用は明らかだ。
その理由は単純だ。日銀が金融機関から預かる日銀当座預金にマイナス0.1%の金利を課しても、銀行としては預金者に転嫁しにくい。人々は、マイナスになるくらいなら、「金利ゼロ」を確保できる現金を保有するという選択肢があるからだ。
日本は現金依存度がきわめて高い。民間のキャッシュレス決済の比率は約20%にとどまる。円を物理的に所有したいという消費者の指向を強制的に変えないかぎり、日銀はマイナス金利政策を永遠に続けることは不可能かもしれない。
日銀は7月末の金融政策決定会合で、金融緩和のさらなる長期化を見据えて政策を修正すると決めた。経済全体に疲弊が広まりつつあり、悲観論が根づけば、安部晋三政権が掲げるデフレ脱却キャンペーンも行き詰まるだろう。
この窮地を脱するためには、政府が民間主導のプロジェクト以上のリーダーシップを発揮するべきだ。民間では、たとえばソフトバンクグループとヤフー株式会社の合弁会社が、10月からスマートフォン決済サービス「PayPay」を開始している。
そこで、国の主導で現金を完全に廃止し、国が発行するデジタル通貨に置き換えるのだ。スウェーデンはすでにキャッシュレス化が進んでおり、2023年にも現金の利用がなくなるかもしれない。優れた技術力を誇る日本なら、さらに早くキャッシュレス化を実現できてもおかしくない。

現金を禁止する「実験的な劇薬」

国が発行するデジタル通貨があれば、日本銀行と財務省は「ヘリコプターマネー」の実験をやりやすくなる。
需要喚起をねらって大量の貨幣を「ばらまく」ように供給するヘリコプターマネー政策として、財務省の永久債を買い入れるかたちで、日本銀行が新しい電子通貨を発行しする。それを財務省が国民の銀行口座に振り込み、使わずに口座に残っている分の価値が、たとえば毎月12分の1%ずつ減るという条件をつける。
この条件により、デジタル通貨で発行された通貨供給分は実質的なマイナス金利となる。それを嫌って消費が増えれば、インフレが喚起される。あるいは、たとえば振り込まれた円をドルに替えて目減りを回避しようとすれば、円が弱くなり、やはりインフレを誘導する。
その結果、日銀当座預金の金利をマイナスからゼロに引き上げることができ、銀行は一息つけるというわけだ。
日銀はヘリコプターマネーを主要な政策手段にすれば、(償還期限のある)国債や上場投資信託(ETF)、社債の購入を解消することができ、資産市場の機能の正常化を図ることもできるだろう。
安部氏は2012年12月に首相に返り咲いて以来、強力なリーダーシップをアピールして、日本は人口動態の運命にあらがうことができると有権者に訴えてきた。すなわち、高齢化や人口減少を理由に、経済が年々縮小することに甘んじる必要はない、と。
実際、アベノミクスは15年近く続いた名目GDPの停滞を食い止め、急成長する中国の影で存在感が薄れていた日本経済をてこ入れしようとしている。
ただし、課題はまだ山積みだ。ドナルド・トランプ米政権の好戦的な貿易政策から容赦ない圧力を受けて、中国政府は地域での影響力をさらに強化するべく、一帯一路の金融インフラ政策を推し進めている。
黒田総裁は、今はまだ薬の投与をやめるわけにはいかない。ただし、現在の処方箋に固辞するべきでもない。このままでは日本の金融機関の体力を奪うだけで、金融インフラプロジェクトで中国の競争相手に太刀打ちできなくなるだろう。
現金を法的に禁止することは、確かに実験的な劇薬だ。それでも試してみる価値はあるかもしれない。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Andy Mukherjee記者、翻訳:矢羽野薫、写真:F3al2/iStock)
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