2008年の金融危機の渦中に「なぜわれわれはお金に翻弄されるのか」との疑問を抱いたウォール街の投資銀行家が著した『貨幣の「新」世界史 ハンムラビ法典からビットコインまで』。著者のカビール・セガールが25カ国以上を訪問し、さまざまな専門家の取材を重ねて著した同書には「貨幣の文明論」が展開されている。

第1回は文明の誕生以来、繰り返しされている質問「お金はハードなのか、それともソフトなのか」をテーマに貨幣の歴史を紐解いていく。

金属主義と表券主義、2つの学説

文明の誕生以来、お金については同じ質問が繰り返されてきた。お金はハードとソフトのどちらなのだろうか。
質問の範囲をもう少し拡大してみよう。お金は固有の価値を備えたアイテムなのか。それとも固有の価値など持ち合わせず、何かほかのものの価値を象徴するだけの存在なのか。あるいは素材に注目するなら、金貨と紙幣のどちらなのだろう。
答えは時と場所によって変わってくるし、民衆や支配者の意向にも影響される。厄介なことに、お金が価値のシンボルであるかぎりは、どちらの答えも正しい。
すでに本書で紹介したが、脳には神経可塑性が備わっており、新しいアイデアを学んだり古いアイデアを更新したりする能力に優れている。
結局は、社会のメンバーの脳を結集した〝超頭脳〟が、何をお金として機能させていくべきかを決定していく。かつてアステカではカカオが、ノルウェーではバターが貨幣として流通した。
お金には多くの形態があるが、経済学説においては金属主義が〝ハード〟、表券主義が〝ソフト〟に該当する。このふたつの学説を比較すれば、お金の歴史への理解は深まるだろう。
どちらの名称も、二〇世紀初めの経済学者ゲオルグ・フリードリヒ・クナップによって考案されたものだ。そしてどちらも今日ではあまり使われる機会がないが、内容を覚えやすいし、お金の基本を正確に学ぶことができる。

価値の源泉に対して異なる解釈

ふたつの学説は、お金の価値の源泉についての解釈が大きく異なる。
金属主義では、お金の評価は固有の価値によって決まるものと考える。固有の価値とは、具体的には商品の市場価格のことで、対象とされる商品は大体が金属だが、ほかの商品が対象外というわけではない。固有の価値が市場で評価されれば、金や銀だけでなく大麦や穀物なども通貨として流通する。
さらに金属主義においては、金属など固有の価値を持つアイテムの裏付けがあるかぎり、紙幣もお金として利用される。たとえば金本位制を採用する経済では、貨幣は決められた量の金との交換が可能だ。
ただしハードマネーの難点は供給には限りがあることで、特に政府にとってはそれが悩みの種になっている。量を無制限に増やして総供給を調整するわけにはいかない。
一方、表券主義はラテン語のcharta すなわちチケットに由来する言葉で、お金自体に固有の価値があるとは考えない。この学説によれば、〝ソフトな〟お金に該当するのは非商品や表象である。
たとえばドル紙幣は単なる紙切れで、固有の価値を伴わない。お金としての利用価値は、国家によって創造される。具体的には、連邦準備制度理事会という機関によって生み出されるものだ。
さらに国家は税金や罰金や様々な料金をドルで請求することによって、貨幣に対する大きな需要を創出する。支払い義務があれば、ドルを調達して取引に使わないわけにいかない。おまけに国家は法貨に関する法律も制定している。
たとえばアメリカで一九六五年に施行された貨幣法には、「アメリカ合衆国の硬貨ならびに貨幣(連邦準備券ならびに連邦準備銀行や国立銀行が発行して流通している銀行券を含む)は、すべての債務、公共料金、税金、手数料に利用される法貨である」と謳われている。
おまけにソフトマネーは生産コストを最小限に抑えられるので、発行者が供給量を容易に調整できるが、その分、偽造の対象になりやすい。

拡大するソフト貨幣への依存度

金属主義者と表券主義者のあいだでは、お金の起源についての考え方が異なり、たとえばアダム・スミスとアルフレッド・ミッチェル‐イネスの見解にも違いが見られる。
金属主義者は、物々交換に代わってお金が登場したという前提に立っている。そしてお金は個人の取引から生まれたもので、市場が創り出したものを国家は勝手に神聖化したと見なす。
一方、表券主義者は、債務や信用供与の制度がお金よりも先行していたと主張する。古代メソポタミアで利子付きの融資が行なわれていた証拠は残っているが、これはリディア王国で紀元前六三〇年頃に硬貨が登場したときよりも何千年も古い。
金属主義と表券主義というふたつの学説は、言うなれば断層線で区別されているように大きく異なるが、同様に、金属を介する取引と信用取引も、市場と国家も、ハードとソフトも大きく異なる。
今日のグローバルな貨幣制度では、金属の裏付けを持たないソフト貨幣への依存度が大きく、表券主義のほうが勝っているような印象を受ける。しかし、貨幣と金属の結びつきは経済理論において未だに重視されている。
実際、影響力の大きい経済思想家の多くは金属主義の立場だと言われ、そこにはジョン・ロック、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミル、カール・マルクスも含まれる。
本章ではハードマネーに焦点を当て、ソフトマネーについては次章で取り上げる。ここでは、〝ハードマネー〟とは貴金属から作られた硬貨ならびにその裏付けを持つ紙幣という定義を採用する。

硬貨発明以前の「原始貨幣」とは

硬貨が発明される以前、すなわちカール・マルクスがC → M → Cという公式で表現した取引が行なわれる以前には、商品が貨幣の機能を果たしていた。貨幣を介さないC → Cという取引で使われる商品(C)について、経済史家は〝原始貨幣〟という呼び方をしている。
大麦や宝石などの原始貨幣は、通常は栄養補給や装飾などべつの目的に使われるが、すべてがそうだったわけではない。
一九世紀、西洋の探検家は太平洋のヤップ島でめずらしい貨幣に遭遇した。フェと呼ばれる大きくて丸い石灰岩の貨幣で、直径が四メートルに達するものもあった。石は六四〇キロメートルも離れた石灰岩の採石場から竹製のボートで運ばれてくる。
ヤップ島の言い伝えによれば、あるとき非常に大きなフェを輸送中に船が転覆し、フェは海底に沈んでしまった。しかしそれでも海中の石貨は富の象徴として認められ、モノの購入に利用されたという。
フェは風変わりで希少な貨幣だが、価値の貯蔵という機能を立派に果たし、交換を円滑に進める手段として役立っていた。たとえ実際に交換されなくても、効果は変わらなかった。
今日使われている貨幣に関する言葉の一部は、原始貨幣に由来している。たとえばキャピタル(資本)とキャトル(牛)の語源のラテン語はcaput で、これは〝頭〟を意味する。所有している牛の頭の数が、かつては富を測る基準になっていたのだ。
あるいはローマ共和国の時代に兵士たちは報酬として塩すなわちsalarium を配給されたが、これは今日のサラリーの語源になっている。一八世紀のアメリカのフロンティアではバックスキンが貨幣として使われており、そこから、バックという言葉はドルと同義語になった。
ただし原始貨幣は国や権力者によって発行されないのが普通で、表示価格で正式な価値が認められているわけではなかった。今日の私たちが知っている硬貨とは違い、交換手段として正式に認められていなかった。

技術の進歩、ハードマネーの進化

硬貨が形を変えると、お金は使いやすくなった。コンパクトになり、しかもお金の価値が権力者によってはじめて標準化されたので、人間同士の協力関係も円滑に進むようになった。第1章(43ページ)で紹介したオフェクならば、交換行為が進化を促した結果だと表現するところだろう。
旧石器時代の手斧が何千年もかけて洗練されたように、硬貨も継続的に改善され、それに合わせて取引は便利で効率的になった。鋳造技術はハンマーを使ったものから、自動プレス機へと進化していった。
紀元前七世紀頃、溶かした金属をおおよそ標準サイズの地板に成形してから、ハンマーで打って模様を打ち出す技術が生まれた。古代の終わりから中世の始めにかけては、メタルシートを貨幣の形に丸く打ち抜いてから台座に載せ、ハンマーで模様を打刻した。
一六世紀のフランスではスクリュープレスが採用される。馬や水で圧延機を動かしながら金属を平らに延ばし、コインの形に打ち抜いてから、刻印台のうえで大きなねじを使って模様を打ち出した。一九世紀には、蒸気で動くプレス機が硬貨の製造に使われる。
硬貨の鋳造技術が改良されるにしたがい、硬貨に刻印されるシンボルは複雑になった。文明や芸術が洞窟の外で発達していくにつれ、様々な意味を持つ様々なシンボルが硬貨には刻まれた。権力者は優秀な職人に複雑なシンボルのデザインをまかせ、国家のアイデンティティを硬貨によって表現した。
さらに硬貨は、発行者が文化を普及させるためにも役立った。よその領土に侵入する軍隊は建物や神殿を持ち歩けないが、これらの建造物の描かれた硬貨ならば問題はない。
刻印された芸術は多くを物語っている。時代が進むと国王や女王もシンボルとして描かれるようになり、硬貨は国家や文化の象徴としての地位を確立した。
しかし原始貨幣からハードマネーへの進歩は一夜にして実現したわけではない。文明の揺籃期から、何千年もの時間をかけて進行した。
※ 次回は木曜日掲載予定です。
(バナーデザイン:大橋智子、写真:ArisSu/iStock)
本書は『貨幣の「新」世界史 ハンムラビ法典からビットコインまで』(カビール・セガール〔著〕、小坂 恵理〔訳〕、早川書房)の第4章「ハードな手ごたえ ハードマネーの簡単な歴史」の転載である。