学級の子どもたちには能力に差がある、みんなを生かすには、教師はどのように発問し、子どもの答えにどう反応すればよいか - 教育問題の解決方法を考える
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注目のコメント
『下の子ばかりにかまけるようでは、上の子はたまったものではありません。
同じく、上の子だけ伸ばして、下の子を切り捨てて進むのでは、教育の名に値しません。
落差は、最後まで残るのが現実です。
それを認めたうえで、上の子も下の子も一緒に伸ばしていくのが、理想の発問であり、優れた授業なのです。』
というこの言葉が、実際の教員経験者であり、大学教授なども経験された方の言葉であることに重みを感じます。
この言葉は、小学校においてはなんとか通用するかもしれませんが、学力差が更に開いた中学や高校、特に積算科目においてはほとんど通用しないものです。
実際の学校では、同一学年の生徒たちに能力差があるにもかかわらず、全生徒が1年間で学ぶ学習量が決められてしまっていることも大きな問題点です。
長距離走に例えると、生徒たちは、能力の高い生徒も低い生徒も「同じ距離を同じ時間で走り終えること」が要求されているわけです。これでは能力の高い生徒は走力を向上させることが十分できないし、能力の低い生徒は非常に苦しい思いをすることになり、勉強嫌いになってしまうだけです。日本にはあまり勉強しない大学生が多いですが、その弊害でしょう。
『学級の子どもたちには能力に差がある、みんなを生かすには、教師はどのように発問し、子どもの答えにどう反応すればよいか』ということですが、これは「発問の仕方」だけで解決できる問題ではありません。
みんなを生かすためには、日本の教育システムそのものを大幅に改善するのが一番です。学年制も改善したほうが良いでしょう。子供たちの能力差は大した話ではなく、育成する側が個々に育成する能力そのものがないのです。だからこそ、記事のような表現方法だけが先走ります。
能力差に対応できる人は、そもそも記事のような話はしません。
記事のような視点をもった環境を作らないのです・・・。
どう反応すればよいかは・・・その時点の育成者の身の丈にあった対応で良いのです。学校では理不尽も一つの育成です。願わくば、運よく自分の問に答えられるどこかしらの大人に出会えることを祈ります。
ですが・・・あえての方法です。
能力差がある環境において、答えを育成者が教えないことが重要です。能力差があるからこそ、各自答えが違うのです。各自が答えた内容に対し論じるのみです。見本となる問いと答えは教科書にある。見本にならない答えこそ論じる価値があり、そこに考えるが潜んでいるのだから。
でも、このような育成方法を求めるのは酷です。
育成者が皆優秀ではなく、多分な根気が必要です。
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