ニーチェで読み解く「偽アカウント問題」

2018/8/16

「神は死んだ」ならぬ「フォロワーは死んだ」

「神は死んだ」と言ったのはニーチェだが、まさに「フォロワーは死んだ」と表現したくなるような出来事が起こった。
ツイッターやフェイスブックなどの大手SNSが、大量の偽アカウントを削除したのだ。それによって何億ものフォロワーが消えたという。つまり、自分をフォローしてくれていた人たちは、ゴーストのような存在だったのだ。
そしてその大量のゴーストを見て、インフルエンサーだと思い、広告費を投入した人、またその広告を見て商品を買った人、これらは皆ゴーストに振り回された人たちということになる。
もちろん、全部が全部そうではない。それに、ゴーストを除いても、影響力のある人は一般の人より多くのフォロワーを抱えていることも間違いない。
しかし、ここで着目したいのは、この「仕組み」自体だ。今や世の中はネット上の影響力という力学で動いていると言っても過言ではないだろう。
多くの人がネット上でしか情報を集めなくなり、情報を集め、そこで得た情報を頼りに物を買ったり、行動を選択したりしている。あるいは人生を選ぶ人さえいる。
決して大げさな話ではない。例えば結婚相手をネット上で探す人はたくさんいるのだから。しかし、そこで流される情報は信頼できるものばかりではない。これが問題なのだ。

フォローするとはどういうことか?

情報の信頼が揺らぐと、ネットは途端に影響力を失ってしまう。アメリカの大統領選挙で話題になったフェイクニュースという言葉、いや現象が、ネットにおける情報の信頼性を損なったのは明らかだ。
困ったことに、人々がSNSを利用すればするほど、また誰でも手軽にネットに情報をアップできるようになればなるほど、こうした問題は拡大する。
メディアリテラシーを強化したり、サービスを提供する側が規制を強化するのは当然だが、それは根本的な解決にはならないだろう。
なぜなら、この世にはモラルのない人間がたくさんいるし、お金のためにギリギリのことをやる人間もたくさんいる。フェイクニュースを作っていたのが、マケドニアの貧しい少年たちだったことを想起してもらいたい。規制の強化もいたちごっこだろう。
ここでフォローするということの本質に立ち返って考えてみたい。
(写真:SonerCdem/iStock)
フォローとは従うことでもある。フォローすればするほど、その対象は影響力を持つ。そして相対的に自分は何者でもなくなっていく。ただ、それはあくまで受動的に従っているだけの場合の話だ。
日本的な「従う」は、もっと能動的営みである。かつて和辻哲郎が『風土』で論じたような、日本人の気質。あえて自然に合わせて生きる強靭さ。その意味での「従う」を念頭に置いて、フォローしてはどうかと思うのだ。

ゴーストが消えた後に残るもの

では、もし私たちがただ単に人に従うことをやめれば、ゴーストも消え去るのではないだろうか。それにはこのゴーストの正体を明らかにする必要がある。 
冒頭で言及したニーチェは、神に頼って生きていこうとする人々の弱さを糾弾した人物だ。そして「神は死んだ」と宣言し、超人の誕生を言祝(ことほ)いだ。
ゴーストとは、ニーチェの糾弾した神に似ているように思えてならない。このネット隆盛の時代に、ゴーストに頼って生きている人たちは、むしろ積極的にその死を宣言すべきなのだ。
ゴーストともいうべき偽アカウントが立ち去った後に何が残るか。
それを健全なデータエコノミーと呼ぶ人もいる。信頼できる情報だけが交換される場になると言いたいのだろう。
健全であること。これもまたニーチェが好んで用いた表現だ。
ただ、ニーチェの言う健全さは、自分の欲望に対する正直さであることを忘れてはいけない。それはお人よしの利他主義とは対極にあるものだ。
健全なデータエコノミーも、そんなニーチェ的健全さが飛び交う場となる可能性は残る。
*本連載は毎週木曜日に掲載予定です。
(執筆:小川仁志 編集:奈良岡崇子 バナー写真:FOTOKITA/iStock)