「スーパー1年生」を苦しめる、大人の強欲と甲子園の闇

2018/4/18
入学したばかりの高校1年生が雑誌に列挙されているのを見て、違和感を覚えた。
10年くらい前からの傾向だ。
中学時代から有望だった選手が強豪高校に進学して期待されていると特集を組み、15歳の球児がスター選手のような扱いを受けている。高校野球を報じるメディアによる、スターづくりの低年齢化は歓迎できるものではない。
なぜ、そう思うのかというと、かつて筆者自身が球児をスター扱いする“過剰報道”に加担し、消えていく選手を見たからだ。
思い返すのは2005年のことだ。
同年夏の甲子園では、「投げては松坂大輔、打っては清原和博クラスの逸材」と騒がれていた大阪桐蔭の1年生・中田翔(現日本ハム)が注目を集め、同じ1年生の本田拓人(京都外大西)、美濃一平(酒田南)にもスポットを当て「スーパー1年生」とはやし立てていたのだ。
高校時代から注目されてきた中田翔は日本ハム、侍ジャパンの主砲として活躍
筆者は彼らを盛り立てる一員として記事を書いていたのだが、当時の報道姿勢が正しかったかどうか、葛藤として残っていた。
なぜなら、中田はプロに進んでスラッガーの道を歩んでいるものの、他の二人は順風満帆な野球人生を歩んだわけではない。美濃は1度きりの甲子園出場で表舞台から姿を消し、高校2年秋の大会後に酒田南の野球部を退部している。
「スーパー1年生」と取り上げられたことは、彼らの人生にどのような影響を及ぼしたのだろう。
長く自責の念に駆られていた私は、今回、美濃の取材をすることができた。

甲子園出場の救世主に

当時の報道をどう思っているのかを尋ねることから取材を始めた。
「結果が出た選手を取り上げるのはしょうがないと思います。そこは『1年生だから』とかは関係ない気がします。清宮(幸太郎=現日本ハム)君も1年生の時から取り上げられていましたけど、打っているんだからしょうがないですよね。活躍している選手をマスコミの人が追うのは悪いことではないと思います」
奈良県葛城市出身の美濃が野球を始めたのは小学1年生のころだ。主に内野を守り3番を打った。中学で硬式野球の道に進む前、小学6年生の時点で「俺は野球で高校に行く」と堅く決意していたという。
そんな強い志があったから、高校の進学先が地方の私学への野球留学となることに迷いはなかった。十数校の誘いの中から待遇と監督が関西出身であることを決定理由に、山形県の私学・酒田南へと進んだ。
当時の美濃にエリート意識はなかったが、酒田南の門をくぐると、いきなりレギュラーとして抜擢(ばってき)された。本職の遊撃手ではなかったものの三塁手として起用され、「そのうち外される」という本人の見立てとは裏腹に、1年夏の最後までメンバーに残った。
美濃の評価が一気に高まったのは1年夏の山形大会決勝だ。
当時の山形県では外国人留学生を擁する羽黒を優勝候補筆頭として、日大山形、東海大山形の私学が上位戦線を形成していた。なかでも羽黒は同年のセンバツ大会に出場。ブラジル人エース・片山マウリシオを擁し、山形県勢初のベスト4に進出していた。
決勝戦はその羽黒との対決となり、美濃は1点ビハインドの4回表の第2打席、走者を1人置いて同点本塁打を放つと、一気に輝きを放つ。投手陣が打たれて再び1点を追いかける展開となった9回には、左中間スタンドに同点ソロアーチをたたき込んだのである。延長10回には決勝タイムリーを放った。美濃は甲子園出場の救世主となった。
「それまでの試合でほとんど打っていなかったので、うれしいというより夢中でした。『やってやった』という感覚はなかったですね。2本目のホームランは9回だったので、みんなが飛び跳ねて喜んでいるのを見て『すごいことをした』という気持ちはありました」
それでも、美濃の中にスターになった気分はみじんもなかった。
右も左も分からないままに、高校野球に身を投じていきなりスタメン抜擢。結果が伴わない中で試行錯誤して、ようやく仕事ができたという感覚しかなかったからだ。

つくられた「スーパー1年生」

美濃の気持ちが変わり始めたのは、甲子園1回戦・姫路工業戦でホームランを打った後だ。
もともと「スーパー1年生」として注目を浴びていた中田、大会に入ってチームを救う好投を見せていた本田と並び称されるようになり、ここから意識が変わった。
「ホームランを打った日の夜に『熱闘甲子園』を見ていたら、酒田南の試合があった日なのに、中田と本田が紹介されていました。そのあと、僕のホームランが取り上げられたんです。その時に初めて中田と本田を知りました。『こいつらも1年なんや』って。その後から二人を意識するようになりました。あいつらには負けたくない、と」
当時の様子を伝える専門誌。左が美濃一平、中央が本田拓人、右が中田翔(撮影:氏原英明)
大会は3回戦で敗退。当時の山形県勢が夏の大会でベスト8進出をしたことがなかったから、美濃の登場には大いに期待が寄せられたものだ。
もっとも、美濃が世間からの注目に苦しむのは、甲子園を終えた後からだ。
次世代を担うスーパー1年生として中田らと並び称されたことで、注目度が肥大していったのだ。
美濃が回想する。
「周りに意識させられるというか、自分の考えとのギャップがありました。僕は入学した時からプロに行けると思っていたわけではないんですけど、『どこの球団に行きたいの?』とマスコミの方に聞かれると意識するようにもなりますよね」
「マスコミの存在も大きかったし、山形は田舎だからよく声を掛けられたんです。『写真撮ってください』とか『ファンなんです』とか『美濃君、頑張れよ』とか。学校の友だちから、『紹介してほしいって、女の子から頼まれた』と言われたこともあります。自分は注目されていると思っていなくても、周囲から必要以上に意識させられました」
知らず知らずのうちに鼻が高くなっていた。
普通の高校生なら日常生活で声を掛けられることはない。ところが同級生といると、美濃だけが周囲から視線を浴びる人気者なのだ。
当然、周囲からの視線は試合の時も同じだ。
それが、さらに彼を苦しめた。

虚像の「美濃一平」

もともと美濃はホームランバッターではない。高校通算1、2、3号は1年夏の県大会決勝以降の3本だ。つまり、入学後から1年夏の県大会決勝までホームランを1本も打っていなかったが、目立つ場面でアーチをかけたために、周囲からの視線が「美濃=ホームランバッター」となったのだ。
そして本人も知らず知らずのうち、自身のバッティングスタイルを見失ったという。
「甲子園に出場したからといって、自分のできることが大きく変わるわけではないじゃないですか。もちろん成長はしますけど、急に甲子園で150キロが投げられるわけでも、急に飛距離が伸びるわけでもない。だから僕のプレースタイルは変わっていなかったんですけど、周りから見られている意識はすごくありました。打って当たり前みたいな。かっこいいところを見せないといけないと、視線を気にするようになりました」
グラウンドにいても、外に出ても、自分を見失う日々は、16歳の高校生には荷が重かっただろう。周囲の見る自分と本当の自分のギャップに苦しみ、結果が出ないもどかしさにストレスはたまるばかりだった。一方で、高くなった鼻っ柱を折ってくれる人物もいなかった。
お山の大将となり、同級生から完全に孤立していた。指導者からも声を掛けられることはなかったという。
2年春、そして夏の甲子園出場を逃すと、美濃はチームに溶け込めなくなっていた。時間を共有するのは高校野球を引退した先輩たち。自分のことを特別扱いしないから居心地が良かったが、同級生への態度はエスカレートし、どんどんチームと心が離れていった。
そんな折、西原忠善監督に呼び出された。
美濃はなぜ呼び出されたのか、察しがついていた。それまでの自分の素行や態度が、チームメートを通して監督の耳に入っていたのだろう。
美濃の予想は間違ってはいなかった。
しかし、監督の一言に、彼は居直らなかった。
「『お前、何したんや?』と聞かれたんですけど、『すいません。僕に関して言われていることは事実です』と返しました。すると監督からは『これからどうすんねん?』と言われて……僕は調子に乗っていたんでしょうね。監督は引き留めると思って、『学校辞めます』って言ったんです。そうしたら、『分かった。今日中に寮を出ていけ』と」
いまなら、自分の態度は良くなかったと思える。
しかし、1年夏のデビューから約1年半、周囲から作り上げられた虚像の「美濃一平」は自分を完全に見失っていた。彼の高校野球はここで幕を閉じた。
自主退学という形で大阪産業大学附属高校に転校すると、履正社スポーツ専門学校を経て、独立リーグを転々とした。「過去の実績にとらわれず、みんながプロを目指している」という独立リーガーの中で野球をするのは心地よかった。志半ばになっていた夢をもう一度追いかけ、選手生活は2014年まで続いた。
現役を退いて気付いたのは、野球を続けてきた動機として、酒田南での悔いが心底にあったことだった。
「酒田南を辞めたことを後悔していないと思っていたんですけど、高校を卒業してからも野球を続けたのは、酒田南の同級生だった山本斉がヤクルトに入団したからです。『なんで、あいつがプロに入れるねん?』って本気で思ったし、『あいつで行けるなら、俺も……』と。反対に2014年に僕が引退を決意したのは、あいつがヤクルトを戦力外になったからです。『もう、本気になられへん』と。結局、酒田南を辞めたことがずっと心の中にはあったんやと思います」
美濃の話は単なる、ひとりの高校球児の転落ストーリーに聞こえるかもしれない。
しかし、彼をそうさせてしまった環境が高校野球界にあることを忘れてはいけない。
高校1年夏、美濃が2本塁打を放つなどの活躍をしたことで、酒田南は甲子園出場を果たすことができた。
メディアから大きく取り上げられるようになり、ひとところの時の人となった「美濃一平」は、本人の意図する人物像より高い所に設定され、正気を失ったのである。
この一件は、甲子園という存在が生み出した“闇”と言えるのかもしれない。
甲子園のスター誕生が、大会を見る上での興味をかき立てるのは事実だ。しかし、誰もが中田のようになるわけではない。時として、美濃のような悲劇も引き起こしてしまうのだ。
美濃は高校1年のころから専門誌にスター候補として注目された(撮影:氏原英明)

球児を慢心させる大人たち

美濃は自身の人生を悔いる一方、いまの高校野球を取り巻く環境について一つのメッセージをくれた。これはおよそ10年前、「スーパー1年生」とはやし立てた筆者らメディアに向けたものだと厳粛に受け止めたい。
「高校生は未熟なので『ドラフト1位候補』や『ドラフト候補』と言われると、本人はそれほどの選手だと自覚がなくても意識すると思うんです。でも、プロに行ける可能性は100%ではないじゃないですか。高校生のことを助長する表現を使うのは疑問に思います」
「ドラフト候補と騒いだ人たちが、その対象の選手がプロに行けなかったとして、声を掛けてやるのか? 知らん顔じゃないですか。『〇〇選手は絶対にプロに行く』と記事を書いて、それが現実にならなかったとしても、書いた人が責任を取るわけでも声を掛けるわけでもない。今年は『大阪桐蔭、最強世代』とか言っているけど、責任を取らない大人がそうやって子どもの夢を勝手に大きくして、慢心させる環境は良くないと思う」
奈良県で取材に応じた美濃一平氏(撮影:氏原英明)
昨今、特に強くなってきたが、新聞や雑誌を売るため、あるいはネットメディアのPVを稼ぐための材料にスターをつくり上げている傾向は小さくはないと感じる。果たして、そう盛り上げているメディアの人間が、どれほどの覚悟を持って報じているのか。
さらに言うと、ここ数年、高校野球を盛り立てる一員としてお笑い芸人が一役買っている。彼らのような著名人が騒げば、世間に知られることも増えるだろう。しかし、芸人がどれほどの眼力を持っているというのか、そして人生を懸けて発言しているのだろうか。
根も葉もないスターづくりは高校球児に必ずしもプラスにならない。
2005年、彼らの将来のことを考えず、スターをつくり上げたひとりとして、自戒を込めて伝えたい。
高校野球の報道のあり方は考え直されるべきではないか。
(写真:アフロ)