2020年には売上高40億ドルの勢い

人間の筋肉は、運動神経の指令を受けて収縮する。ボトックスは、この指令の伝達を阻害することによって、骨格筋の収縮を抑える。
現在、米食品医薬品局(FDA)がボトックスの医療目的での使用を認めているのは、慢性偏頭痛、過活動膀胱、激しい筋肉けいれんなど9つの疾患。その一方で最近は、うつや心房細動(不整脈)への効果も研究されている。
美容目的の使用も拡大している。今後は首の皮膚のたるみやエラの張りを抑えるための利用が進みそうだ。
米製薬大手アラガン(Allergan, Plc.)の前CEO、ギャビン・ハーバート・ジュニア(85)は初めてボトックスの実施権を獲得したとき、年間1000万ドルの売り上げが見込めると思ったという。それが今は、2020年までに約40億ドルに達する勢いで伸びている。
アラガンはもともと、ロサンゼルスで家族経営の薬局としてスタートした。製薬会社としてのスタートは、抗アレルギー成分を配合した点鼻薬「アラガン」を売り出したときだ。
さらに共同創業者のギャビン・ハーバート・シニアは、指しゃぶりをやめさせる方法を開発しようとしたが、失敗。そんなとき友達から、アレルギー性結膜炎用の点眼剤の調合にトライしてみてはと提案され、米国初の抗ヒスタミン作用のある点眼剤の開発に成功。これがアラガンとしての初のヒット商品になった。
彼の息子ハーバート・ジュニアは、1957年に会社を継ぐと、古い映画館に会社を移転した。映写室は無菌充填エリアに、バルコニーと舞台は倉庫になった。
1970年代までにアラガンは上場を果たし、目薬とコンタクトレンズ溶液のメーカーとしての知名度も上がり、さらなる拡張を目指していた。ハーバート・ジュニアがアイルランドのウエストポートに目をつけたのはこの頃だった。
当時、アイルランド北西岸は深刻な不況に陥っており、ウエストポートの失業率は30%にも達していた。地元の政治家が経済団体を説得して、米国企業を誘致できるような工場が建設されたが、ハーバートが目をつけるまでは空っぽだった。
ハーバートは、コンタクトレンズ溶液の第2工場となる場所を探していた。人口6000人の町ウエストポートの最大の魅力は、税制面での優遇措置だった。
16世紀の海賊の女王グレース・オマリーの城郭を中心とする町は、風光明媚な自然に囲まれており、アイルランドでも指折りの観光名所として知られる(グレース・オマリーの物語は『パイレート・クイーン』としてブロードウェーミュージカルになっている)。
そして今、観光と並んでこの町の経済の柱となっているのが、ボトックスだ。

アンチエイジング効果はカナダで発見

画期的な新薬の多くがそうであるように、ボトックスのアンチエイジング効果も偶然見つかった。その立役者は、バンクーバーの眼科医ジーン・カラダーズと皮膚科医アラステア・カラダーズの夫妻だ。
あるとき、まぶたのけいれんの治療を受けていた女性が「今日はなぜ眉のところに注射をしてくれないのか」と、ジーンに不満を訴えた。眉根に注射をしてもらうと「美しくなり、表情が優しくなる」のだという。
その頃、夫のアラステアは眉間の深いしわをなくす方法を探していた。そこで夫妻は、ボトックスを額のしわに注射してみることにした。
最初の「実験台」は、2人の診療所の受付係だ。すると、数日後には彼女の額はずっとなめらかになり、その表情は「さわやかで、快活で、若々しく」なったと、ジーンは2012年にTEDxトークで語っている。
そこでカラダーズは、もっと実験を試みようとしたが、猛毒を顔に注射してもいいと言う患者を探すのは容易ではなかった。だからジーンは、自分の額にボトックスを注射してみることにした。するとたちまち「私にも射ってほしい」と言う患者が続出。「以来、しかめ面をすることはなくなった」と、ジーンは笑う。
調査会社SSRによると、ボトックス注射の定価は1回約600ドル。そしてボトックスは、たいてい定価で販売されているという。その約55%は医療用だ。残りの45%は美容目的で、保険の適用はない。実際には、この定価に医者の処置費用などを上乗せした金額を患者は支払うことになる。
アラガン以外にも、世界的な製薬大手が独自のボトックス開発に乗り出してきたが、多くが失敗してきた。ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)は2009年、ボツリヌス菌由来の実験薬「ピュアトックス(PurTox)」を開発していたメンター(Mentor Corp.)を11億ドルで買収したが、5年後に開発を断念した。
FDAはバイオ後続品(生物学的に先発薬とほぼ同一の薬剤)の開発を奨励しているが、ボトックスの地位を脅かすメーカーは登場していない。後発品開発で最も有力とみられるマイラン(Mylan NV)は、今年3月に投資家に関心を示したが、まだ本格的な試みは始めていない。

独占状態を守る、複雑な製造工程

アラガンの事実上の独占を守っているのは、その複雑な製造工程だ。
アラガンは特許ではなく、トレードシークレットによってその秘密を守っている。特許を取得すると、一定期間独占的な権利が認められる代わりに、その製法を公開しなければならない。だがトレードシークレットなら、自ら秘密を漏らさないかぎり、コカコーラのように半永久的に製法を秘密にしておくことができる。
このためボトックスの後発品メーカーは、ゼロから開発に取り組まなければならない。
たとえ製法が公開されていたとしても、ボトックスの製造は極上のワイン造りのようなものだと、アラガンのミッチェル・ブリン最高科学責任者(ボトックス担当)は言う。ビンテージワインは、ライバルが複製できるものではないというのだ。
「根本的な製法は、嫌気性の発酵プロセスだ」と、ブリンは言う。「発酵時間や精製プロセス、試薬といったことが極めて重要になり、厳密なコントロールが必要だ」
アラガンは2015年に、後発医薬品大手アクタビス(Actavis Plc)に約660億ドルで買収された。新会社がアクタビスではなく、アラガンと名乗ることにしたのは、そのブランド力の強さを物語っている。だが、新生アラガンは最近、大きなトラブルに見舞われている。
ブレント・サンダースCEO(47)は昨年薬価上限の導入を約束して、見識ある製薬大手トップとして名を上げたが、その評判もこの10月地に落ちた。
アラガンはドライアイ治療薬「レスタシス(Restasis)」の特許無効裁判に対抗するため、主権免除特権が認められているアメリカ原住民に特許を譲渡して、提訴無効の判決を勝ち取ろうとしたのだ。この件で、アラガンは集中砲火を浴びている。

輸送について知る人はごくわずか

ボトックスの主原料であるボツリヌス毒素(ボツリヌス菌を精製した神経毒素)がウエストポートへの旅に出るのは、おそらくアーバイン近くのどこかだ。だが、アイルランドのどこに飛行機が着陸し、そこからどのようにウエストポートに届くのか、アラガンは口をつぐんでいる。
「アラガンの管理下から離れることはない」と、ウエストポート工場ゼネラルマネジャーのポール・コフィーは言う。「輸送について知る人はごくわずかだ」。頻度も極めて低い。次の輸送は1年以上先、ということもある。
「世界では恐ろしい事件が数多く起きているが、わが社のセキュリティーに不安はない」と、コフィーは言い切る。「強いて言えば、そうした事件は、この種のセキュリティーが必要なのだという思いを新たにしてくれる」
コフィーによると、サンダースCEOさえも、ウエストポートの最もセキュリティーの厳しい区画には入る許可がないという。
ウエストポートの製造施設は、郊外の細いくねくねした道をたどった先にある。24時間体制で警備員が詰める建物を過ぎると、美しい庭園が広がっている。ガーデニングを愛するハーバート・ジュニア元CEOは、アーバインの敷地も美しい庭園を作っている。
コフィーは、施設内部のセキュリティーを、タマネギの皮にたとえる。「われわれは、タマネギの中心に精製された毒素を隠している」。ボツリヌス毒素の保管室に設置された監視カメラは、アラガン最大の資産を守るだけでなく、周辺機器に不調がないか技術者たちが確認する目的でも使われる。
この施設で、ボツリヌス毒素はタマネギの中心から世界に出て行く準備をする。ごく少量の精製毒素が生理食塩水と混合され、一連の管をたどって無菌充填室に運ばれる。この部屋も温度、湿度、差圧、微粒子などが厳しくコントロールされている。
工程はほとんどが自動化されており、各機械に搭載された超小型カメラによって監視されている。最終工程では、生理食塩水が小さなガラスの瓶に注入され、微粉末にされる。その瓶を1つ1つ箱に入れれば、出荷の準備は完了だ。
こうして世界最強の有毒物質はおおむね無害化され、世界中に出荷され、深いしわの入った眉間や、汗かきの手の平に注射される。もう警備員付きのプライベートジェットは必要ない。フェデックスで十分だ。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Cynthia Koons記者、翻訳:藤原朝子、写真:BraunS/iStock)
©2017 Bloomberg Businessweek
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.