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なぜ私たちは人を殺してはいけないのか

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  • 社会保険労務士

    殺してもいいってなると、人間絶滅するから、そういうプログラムがされているんじゃない?
    殺人する人はきっと遺伝子がバグってると思っている。

    経験はないが、きっと生きていられない精神状態になりそう。


注目のコメント

  • エネルギーアナリスト/ポスト石油戦略研究所代表

    この問いに一見して答えが出せないように思えるのは、暗に「個人として」と「社会として」という2つの異なる前提を同時において考えようとしているからだ。

    特に、わざわざ「私たち」といった場合、主に自分のことを指していて、そこに自分以外の自分に似た人たちも含むというニュアンスと、単に自分を含む社会の構成員全体というニュアンスの両方を想起させるため、よりいっそうミスリーディングな表現となっている。

    善悪や価値を問う規範論や倫理においては、個人としての立場と、社会(集団)としての立場で、しばしば結論に矛盾が生じる。

    例えば、「どんな場合であっても人は人を殺してはいけない」としてしまうと、正当防衛、テロリストの射殺、戦争における戦闘行為、死刑執行、安楽死、妊娠中絶、など社会的に正当化されている人を殺す行為を認めることができなくなってしまう。

    また、仮に「どんな時であっても人を殺しても良い」とした場合の不都合からこの問題を考える場合、個人の場合は「自分がされたくないことを他人にしてはならない」というような個人の倫理的な行動規範に帰結し、現代の社会規範とは異なり復讐としての殺人が正当化され得る。
    一方、社会の場合は社会秩序を守るために「どんな時であっても人を殺して良い」というルールは受け入れがたいが、「限定された場合では人を殺して良い」という結論となる。

    前者の前提となっている倫理規定は、個人としての"正しい"生き方の問題であり、後者の前提となっている倫理規定は、社会の安定を"正しい"とする価値観の問題であって、両者はまったく根拠がことなるものである。

    個人と集団ということなった基準の問題を同時に考えようとしているのだから、合成の誤謬のような矛盾が存在しうるのは当然のこと。この手の問題は、殆ど全ての人間はなんだかんだ社会に属して生きていることが暗に前提になっていて、社会の問題としての問題であるかのように見えて、個人の問題に落として考えると(一見すると)矛盾を生じてしまうので、それで煙にまいている。


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