弱者に寄り添うキャラクター
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注目のコメント
弱者は機微にとても敏感なので、寄り添いかたをまちがえると傷つけてしまいかねません
弱者に寄り添う登場人物は、作品に深みや広がりをもたらしますが、その複雑でややもすると共感されにくい被害者は、作品のトーンを落とし、読みにくい、分かりにくいものになりかねません
しかし、わたしはそういった影のある人物に親近感を抱くし、共感するし、人間味がある、リアルな作品だと感じます。さいきんは、ハイキューの敵チームの回想シーンにジーンときてます弱者に寄り添う。
とても難しいけれど、ある意味ではとても簡単なこと。
というのも、もともと人間は弱者に寄り添うようにできているから。
人間、というよりホモ・サピエンスは、もともとは食物連鎖ピラミッドの中ほどあたりに位置するのが適当な種でしかなかった。純粋な身体能力からすれば、その程度が適当なポジションでしょう。それが現在は、ピラミッドの頂点を跳越えて、ビラミッドそのものを破壊せんとする勢いになってしまっています。
サピエンスが頂点に座ることができたのは協働ができるようになったからですが、では、協働とはなにかというと「弱者に寄り添う」ことをより効率よくできるようになった、ということなのだと思います。
サピエンス、いえ、人間は、効率を求めるときには強者の論理を求める。けれど、人間、いえ、サピエンスはそれほど合理的な生きものではない。先頃ノーベル章(スウェーデン銀行賞)を受賞した行動経済学は、そのあたりを焦点にした学問ですね。
サピエンスは不効率な行動をする動物で、そのなかにはもちろん利己的な行動もあるのだけれど、しばしば「弱者に寄り添う」ような行動を行う。そうした行動は、あまり高くない身体能力しか持たなかったサピエンスの生存競争の手段だった。頂点に君臨してしまった現代では必ずしも必要ではなくなった「古い行動原理」。
となると、弱者に寄り添うキャラクターは、現代社会における生き残りに適応する前の子ども、あるいは適応する能力がない障害者(という言い方は善くないけれど)、あるいは適応をキャンセルすることができた人間、ということになります。
キャンセルすることができた人間の形は、たとえば禅であるなら、十牛図の十枚目。布袋さんが無邪気に子どもと遊んでいる姿が描かれてる「入鄽垂手」になるかと。これは、強者が考える「弱者に寄り添う」とはいささか違ったイメージでしょうけれども。
というか、「弱者に寄り添う」という物言いがすでに強者のもの。強者/弱者を選別できるのは、強者の特権だから。この特権を手放さない限り、「弱者に寄り添う」はどこまで行っても強者の振る舞いでしかありません。