オックスフォード大と提携

マン・グループのAI研究が行われているのは、ロンドンから西に電車ですぐのところに位置する高層ビルの中だ。目の前には18世紀に建造されたオックスフォード大学のラドクリフ天文台が見える。
ここには技術者、統計学者、コーダーたち以外にも、アルゴリズムやAIをどのようにして金融に適用できるかを研究している学者や専門家もいる。
この研究所は「Oxford-Man Institute of Quantitative Finance」と呼ばれる、マンとオックスフォードの提携事業だ。マンは初期費用として1045万ポンド(約15億円)を投じており、同社が専門家から技術的な情報をいち早く取得できるようになっている。
室内は図書館のような静けさだ。コーダーはヘッドフォンを付け、コンピューターのキーボードを叩いている。方程式が書かれたホワイトボードもある。マンがここで中心的に行っているのは、金融や取引ではなく画像認識などのために開発された機械学習の技術を適応させることだ。
同社は独自のコードライブラリを作成しており、AHLのチーフサイエンティストでこの研究所の責任者を務めるアンソニー・レッドフォードによると、技術者はAI技術の開発にそれを利用することができる。
「価値のあるアイデアを取り出し、実世界に適用しなければならない」とレッドフォードは言う。「取引のシステムの構築法を示す青写真ではない」
レッドフォードは、社としてAIのどの技術を採用するかを決断する上でのゲートキーパーとしての役割を担っている。彼はAIに懐疑的で、AIに集まる期待の多くはマーケティングにあおられたものだと指摘する。
「彼は議論をする相手としてはタフな人物だ」とニック・グランガーは言う。「彼はたいてい誰よりもやっかいだが、それは前向きな懸念要素だ」

AI技術者が用いる「飴と鞭」

AIの技術者はコンピューターに学習させる上で飴と鞭を使う。実験用マウスにエサが欲しければボタンを押すよう教えるのと同じようなものだ。
いわゆるディープラーニン(深層学習)においては、アルゴリズムは蓄積された過去の情報の中からパターンを予測するよう学習する。そして、たとえば株式やコモディティの価格データに類似性を見つけると、AIは「励まし」を受ける。
もうひとつのアプローチがリインフォースメントラーニング(強化学習)と呼ばれるもので、コンピューターはある行動の成否によって自ら修正をする。
研究者らはまた、すでに人間の手によって実施されているものと類似した戦略を構築するなど、特定の行動をAIがしないようにアルゴリズムにペナルティーをプログラムしている。
マン・グループはおそらく一般的には、文学賞のブッカー賞のスポンサーとしてのほうが知られており、古くからテクノロジーを主軸に置いていたわけではない。創業は1783年。ジェームズ・マンが、ロンドンのテムズ川沿いにある現在のオフィスから500メートルほど離れた場所に商社を立ち上げたのが始まりだ。
それから2世紀に渡り英国海軍にラムを供給し、コーヒーや砂糖などの取引を手掛け、その後、金融サービスに事業を集中させた。1989年、マンはコンピューター主導で運用を行っていたAHLを買収。現在、社の最先端のAIの業務のすべてはAHLで実施されている。
マンの技術は有望だが、同社は業界に吹く逆風と闘っている。投資家はたいした成績しか上げないヘッジファンドが課す高額の手数料に嫌悪感を抱いている。昨年は、ヘッジファンド全体で1120億ドルが流出。過去2年間では、ヘッジファンドは創業件数よりも廃業件数のほうが上回っている。
マン・グループは今年に入って株価が40%上昇したが、それでも金融危機前の2007年のピーク時から77%落ち込んでいる。
マンにとって頼もしいのは、投資家たちがますます資金をテクノロジーに預けるようになっていることだ。AIの運用を本格的に導入しているヘッジファンドはマンの他に、ルネッサンス・テクノロジーズ、ツーシグマ、ブリッジウォーター・アソシエイツなどがある。

開発者ですら理解できない

しかし、AIも万能ではない。最大限のデータをつぎ込めば次々と利益を生むというものではなく、多くのアルゴリズムは効果を上げない。マンの一部の社員は、AIがすでに知られているセオリーを構築したり、実際の取引には当てはまらない予測をしたりすることが多いと話す。
ただマンにとってはラッキーなことに、AIはたいてい適切に働き、冒険的な投資をするのではなく少しずつ利益を生んでいる。グランガーは「われわれは大きなリスクのあるものを作ろうとしているわけではない」と言う。
2010年5月6日、ニューヨークの午後2時45分頃、アクセンチュアやセンターポイント・エナジーなど複数の企業の株価が1セントまで突如下落した。プロクター・アンド・ギャンブルは約40%下げた。同時にアップル、サザビーズなどの株価は一瞬の間に10万ドル以上にまで上昇。市場は混乱を極めた。
この「フラッシュクラッシュ」を起こした要因は不明だが、研究者や規制当局の調査によれば、コンピューターが関与している。アルゴリズムが自動取引システムに破滅的な影響をもたらしたのだ。この時のことは、コンピューターのコードが金融の世界で役割を拡大させ、ときに望まない結果を生むことを浮き彫りにした。
AIは市場に新たな複雑さを持ち込んでいる。この自律的なシステムは、開発者にすら明白ではない方法で動くことがある。利益を生んでいる限りはそれでもよいが、うまくいかなくなった場合、厳しい視線を注がれることになる。
そしてAIは処理能力が高まり、より多くのデータが使えるようになればなるほど、複雑さを増す。
グランガーによれば、マン・グループは予防策を講じており、異常な取引は実行される前に人の手によって調査される。また事後の分析ツールもあり、なぜAIが特定の判断をしたのか技術者が知る手がかりを与えている。
それでもCEOのルーク・エリスは、AIの導入には論理を越えてそれを信じ切ることが必要だと言う。結局のところ、「AIが何をやっていて、その理由はなぜかが具体的にわかっているなら、それは機械学習ではない」とエリスは言う。「そのプロセスを信じなければならない。最初は恐ろしかった」
AI運用の成績は期待されていたほどではないという意見もある。ヘッジファンド調査会社ユーリカヘッジによれば、AI運用を導入している12のマネープールファンドは2011年以降、S&P500の成績を上回っていない。
それでも、AI運用による利益はヘッジファンド業界全体をやや上回っている。2014年に機械学習を導入したマンのAHLディメンションは、6月までの3年間で約15%の伸びを記録し、業界平均のほぼ倍だ。

アルゴリズムに対する嫌悪感

投資会社プロテジェ・パートナーズの創業者兼CEOのジェフ・タラントは、金融業界のAI活用について何年も研究してきた。AIはいまだ導入の初期段階だが、業界を変えるようなインパクトを与えるだろうとタラントは言う。運輸業界にウーバー・テクノロジーズが与えたような影響だ。
ただ積極的にAIを導入しているマンも足元をすくわれるリスクにさらされていると、タラントは指摘する。
AI運用をする新興ファンドの中には、顧客に対する管理手数料を運用資産の1%、成功報酬を利益の10%としているところもあり、一般的なヘッジファンドの半分ほどだ。またAIを全面的に導入している企業は、大勢の従業員を抱える必要はない。
タラントは、業界で力を持つのは優秀なポートフォリオマネジャーを要する企業ではなく、最高のテクノロジーを備えた企業へと移行していると言う。「今後数年間で、アセットマネジメントの分野では大規模な失業が生じるだろう」
こうした懸念の背景には、哲学的な疑問がある。そもそもなぜ金融システムをコンピューターのコードに委ねるようになっているのか? 人間の関与が減ることの利点は何か?
医療の分野ではAIが疾病を初期段階で発見し、生命を救うことが期待されている。自動運転車は死亡事故の件数を減らす可能性がある。しかし金融の世界では、その答えが明確ではない。
AI支持派は、AIが市場の効率性を高めると主張している。コンピューターはより有用な情報を処理することができるため、株式やその他の証券には適切な価格がつく。
マン・グループは、AIが年金基金や退職者を含む顧客の利益を高めるとしている。それは魅力的な主張だ。退職金口座の預金額を増やしたくない人がいるだろうか?
マンのグランガーは、人間は自分たちの生活をますますテクノロジーに委ねているが、それが持つ力に懐疑的だと言う。彼は「アルゴリズムに対する嫌悪感」についての研究に言及し、それによると、あるタスクに対してコンピューターのほうが効果的な場合でも、私たちは人間のほうを信頼するという。
グランガーはその例として、自動運転車の事故で人が死亡したら、日々何千件と起きている一般的な自動車による事故よりもはるかに重大な事件となるだろうと述べた。私たちはアルゴリズムに囲まれた世界に生きているが、「人はそれを信じることができずにいることが証明されている」とグランガーは言う。
グランガーがマン・グループで最初にAI運用を始める決断をしてから数年がたち、功績が認められて彼は7月にAHLのCIOに就任した。
彼はなぜAIが特定の取引をするのか理由がわからないことにも納得している。彼にとってテクノロジーは、自分が知らないことを見つけ出すものなのだ。「それを好む人もいれば、好まない人もいる」とグランガーは言う。グランガーはまた、テクノロジーに対する不安が過剰になっていると言う。
彼が思い出すのは、愛読書の一つであるロバート・ハリスの『The Fear Index』だ。AIを使ったヘッジファンドをジュネーブで起業した有能な数学者を描いたミステリーで、彼がつくりだしたシステムは完璧な働きをし、彼にとてつもない富をもたらす。だがその後、AIは彼を殺そうとするのだ──。
原文はこちら(英語)。
(執筆:Adam Satariano記者、Nishant Kumar記者、翻訳:中丸碧、写真:v_alex/iStock)
©2017 Bloomberg News
This article was translated and edited by NewsPicks in conjunction with IBM.