【三浦瑠麗×猪瀬直樹】共感力。男女の溝。リベラルアーツ

2017/9/10
国際情勢が大きく変化する中、日本は国家としてどのようなビジョンと戦略を持つべきか。エリートに求められる役割とは何か。国際政治学者の三浦瑠麗氏と作家の猪瀬直樹氏が、日本の針路を考える(本記事は『国民国家のリアリズム』(角川新書)からの抜粋です)。
前編:日本のエリートに国家観はあるか

コンパッションの思想

三浦 団塊ジュニア世代の東浩紀さんがよく「ゼロ年代批評はダメだ」と言っています。
ネットや携帯の普及によって、これだけ言語空間が飛躍的に広がった時代に構築されたゼロ年代の批評もダメだとなると、論壇を担おうというような人は誰もいないということになってしまう。
でも私は、人間はそんなに変わらないと思っているのです。
つまり、猪瀬さんが言う戦前のエリートたちがほんとうにショーペンハウエルを読めていたのか。全集を買う文化は、必ずしも皆がそれを読んだということを意味しません。
猪瀬 たとえ読まなくても、本棚にあるということが大事。
三浦 それは、そうですけど。
私がアンカーをつとめていたフジテレビのインターネット配信番組ホウドウキョク「FLAG7」の最後に東大生の考えていることをシェアするコーナーをやっていましたが、東大生がむしろ普通になりたがっている傾向はたしかにあります。
ただ、私は上の世代、親世代の人たちに不信感を持っています。あの世代の人たちは旧制高校的な文化を持っているけれども、その物事にほんとうに関心があるのではなくて、何か知識をひけらかして知的競争をしている感じが拭えない。議論に勝つことがコンテンツより大事なのではないかと勘ぐってしまう。
だから、教養だけあってもダメなのです。
猪瀬 傍観者ではダメ。愛がなければダメなんだ(笑)。
三浦 そう、愛がなければダメだし、ある程度の自由度というか、時代は動くのだという信念がないとくさってしまうだけなのです。
猪瀬 共感がなければダメで、その共感がどこから来るのかということだよね。
繰り返し言っているけれども、明治維新以来、この国が滅ぶかもしれないという危機意識のなかで、やはり欧米列強に滅ぼされるかもしれないアジア諸国に思いを致すのが、三浦さんの言うコンパッション(共感力)だった。
そういうコンパッションが、大正時代ぐらいから少しずつ、ひたすら個人の私的な幸福を追求するみたいなことに矮小化されていった。
陸軍士官学校を出た東條英機たちが話し合って、藩閥のコネで出世して行くのはおかしいと言い出して、平等でなければいけないと主張した。
猪瀬直樹(いのせ・なおき)
作家。1946年長野県生まれ。87年『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。2002年6月小泉純一郎首相の下で道路公団民営化委員に就任。07年6月石原慎太郎東京都知事の下で副知事に就任。12年12月東京都知事に就任。13年12月辞任。現在、日本文明研究所所長、大阪府市特別顧問。
ところが、その平等の根拠は何かといったときに、陸軍士官学校のペーパーテストの成績、つまり偏差値に求めた。その結果、点数が一点でも多い者が選ばれることになり、価値観や思想の全体が見られなくなってしまった。
戦争をするのだから大きな戦略を持たなければならないのに、軍部のエリートたちが小さな出世を競うようになっていった。しかも、そのメンタリティが戦後も続いている。
三浦 たしかに続いています。

男と女の越えがたい溝

猪瀬 札幌農学校に赴任したクラーク博士が「ボーイズ・ビー・アンビシャス」(少年よ、大志を抱け)と言ったとき、明治の日本人はアンビシャスを「野心的」ではなく、「大志」と訳した。
要は、その人の生き方に大志があるかないか、なんだよ。
三浦 わかりますよ。「お受験ママ」というのは、たしかに出世はもたらしてあげられるかもしれないけれど、本当の実力や志は育てられないのです。
猪瀬 まあ、そうだね。
三浦 しかも、東大の試験では人格はもとより、頭のよさすらも完全に測れるものではないから。そうすると、やはりどうしていいかわからないということになると思います。
猪瀬 だからいまこの議論でわかってもらうしかないと思う。
何度も言って来たように、「黒船」が来航して以来、150年余にわたって、日本人がどうやって近代を生き延びて来たかということを見ないといけない。近代を見ずに、現代だけで語るとクリエイティブな発想が出てこないと思うんだよ。
【猪瀬直樹】教養人は「仮説」と「文脈」を持っている
三浦 それはそうですね。社会的歴史観は広くもったほうがいい。
たとえば、ISに対してみんなが抱いている恐怖感というのは、戦間期における共産主義者や無政府主義者に対する恐怖感と酷似しています。
だから、私のように歴史重視の人間からすると「この恐怖感は国家を破壊するものに対する恐怖なんだな」と思います。でも、現代にとらわれていると、これはイスラム過激主義と先進各国の対立だというような平板な理解しか生まれない。
三浦瑠麗(みうら・るり)
国際政治学者。1980年神奈川県生まれ。東京大学農学部卒業。東京大学公共政策大学院修了。東京大学大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。専門は国際政治。現在、東京大学政策ビジョン研究センター講師。著書に『シビリアンの戦争』『日本に絶望している人のための政治入門』などがある。
この間、国際会議でそう言ったとき、にわかには共感は広がらなかった。けれど、時間が経つうちに「よく考えるとそうだね」というふうに言ってくれる人が出てきた。
だから、「よく考えるとそうだね」と思える視点でモノを見るには、事実を同時代的に把握するいっぽうで、そういう把握を常に突き放して見ることが必要だということだと思います。
女性的な感性にはいま目前にあるものを突き放して見るぐらいのリアリズムがあるのだけれども、それをきちんとした歴史の勉強と組み合わせ、どの時代の事実に対しても観察を怠らなければ、ユニークなひとつながりとして見ることができる。
いっぽう男性的な思考にはやっぱり、猪瀬さんが連続性と言うストーリーを求めるように、どうしてもストーリーに縛られた歴史観や世界観を持つことになると思うのです。
官僚やメディアはなぜ「国民」を見誤るのか
猪瀬 そこは男と女の越えがたい溝ということか。黒船以来の歴史を見ることは、そんなに難しいことじゃないと思う。

共感とリアリズム

三浦 私がなぜ日本とたびたび衝突する韓国に対して、彼らと利害が折り合えないのに、割に温かな感情を持っているかというと、それは「自分事化」してふつうに考えたからなのです。私が相手だったらどう感じるかを考えたのです。
それを、私は「ママ性」と呼んでいます。客観的な思考や感性と言ってもいいですが。それが利他性の始まりなのではと。
だから、現代においてコンパッションを持つ方法は、猪瀬さんの主張するように歴史に学ぶやり方だけでなくて、私のようにママ性を根拠にする方法もあると思うのです。
団塊ジュニア世代のトップランナーである東浩紀さんが新著『ゲンロン0』を出しましたが、これは本当にいい本でした。
私は国際政治学者であり、割に国家中心の考え方を持っているのですが、東さんは哲学者であることもあって、国家に期待するのは無理だと考えています。
もちろん、国家の存在は認めているけれども、日本のようにディズニーランド化してしまった国では、個人が享楽を求めて生きることを肯定しているわけですよ。だから、少し違う思想だなと思っていたのです。
ところが、本を読んでみて、これは折り合えるなと思いました。
【東浩紀×西田亮介】「民主主義=資本主義」の未来
東さんは「誤配」的な経験に期待を寄せているのです。「誤配」的な経験とは、たとえば韓国に関心のなかった人たちが韓国に旅行してショッピングをしたり、美術に興味のない人が旅行でエルミタージュ美術館に行ったりすることです。
それは私の専門からすると、たとえば、中国の国有企業である多国籍企業がイギリスでビジネスをすることによって、イギリスの豊かさや労働環境の厳しさなどを学びとって自ら変わっていくということです。
私はいまそういう多国籍企業の変貌について企業のサイドから研究していますが、東さんが哲学的なアプローチから辿りついた結論と、私が政治学のアプローチから辿りついた結論が矛盾するものではないということがわかったのです。
それと同時に、40代の日本人で、東さんのように未来を信じたり夢を持ったりする人がいたんだということを知って、純粋に嬉しかったこともあります。
猪瀬 東浩紀くんは誠実で使命感があるからね。
三浦 すぐに問題解決をしたがる人たちが目立つなかで、東さんはその一員ではないんですね。だから、毛色が違うとはいうものの、東さんも猪瀬さんも私も考え、夢みるという意味でつながっているのはいいことだなと思います。
それが実は私が教育という形で、大学生たちに提供したいものなのです。
私はいま青山学院大学で国際政治の講義を担当していますけれども、そこで伝えたいのは、他者に共感する前提としての洞察力と、相手の立場に立ってみるという実験を通して体得するリアリズムなのです。
私にとって、共感とリアリズムはほぼ同じものなので、講義を通してリベラルアーツを少しでもやれたらなと思っているのです。
猪瀬 大事なことだよ。日本の近代はまさしくリベラルアーツから始まったのだから。
(撮影:後藤利江)