【第1回】津波で壊滅したまちへ移る決断

2017/6/4
地域再生には、「よそ者、若者、ばか者」が必要とよく言われるがそれは本当なのだろうか。修羅場のリーダーシップとはどのようなものなのだろうか。35歳で縁もゆかりもない陸前高田市の副市長を務め、現在、立命館大学公共政策大学院で教鞭をとる久保田崇教授が、陸前高田でのリアルな体験を振り返りながら、「よそ者のリーダーシップ」の真髄について考える。

よそ者が、陸前高田市の副市長となる

東日本大震災から5カ月になろうとする2011年8月1日、当時35歳の官僚だった私は「陸前高田市副市長」に任命されました。
戸羽太市長から副市長の辞令交付を受ける筆者。
私は、東日本大震災の津波により壊滅した岩手県陸前高田市にボランティアで訪れたことが縁で、所属元の内閣府から出向し、2011年から2015年まで、同市の副市長を務めました。
今でもよく思い出します。歩くとミシミシ音がするようなプレハブ庁舎で、職員とともに汗を流して作成した、震災復興計画。壮絶な体験をしながらも、美しく前を向いて歩く住民。やり場のない怒りと悲しみを市役所にぶつける住民。そして、前職の内閣府では最大で部下4人しか持ったことがないにもかかわらず、市長に次ぐナンバー2として部下約300人を持つという重責。
この激動の4年間は、私の人生を大きく変えました。霞が関での10年間とは全く異なる、とても濃密な経験だったのです。この連載では、「よそ者のリーダーシップ」として、私が学んだことを振り返ってみたいと思います。

陸前高田市への初訪問と戸羽太市長との出会い

東京・霞が関の内閣府で仕事をしていたときに、東日本大震災が発生。数分後には、職場のテレビから流れてくる東北の映像に目が釘付けとなりました。この時点では、内閣府で青年国際交流の業務を担当していた自分が、被災地に大きく関わることになるとは、夢にも思いませんでした。
震災から2カ月経った2011年5月下旬、陸前高田市にボランティアとして訪問しました。被災地に入るのは、これが初めてです。
ボランティアのチームメンバーには、内閣府の先輩として親しくしていた樋渡啓祐・佐賀県武雄市長(当時)もいました。
その日はひたすら、避難所や学校、被災企業に足を運び、被災者の方の話を聞きました。避難所ではどんな生活をしていて、どんなことに困っているのか。生徒はどう避難したのか。被災した事業者の再建は可能なのか、など。
2011年5月26日、佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長(左)と初めて陸前高田市を訪問する。
初めて陸前高田市を見たとき、あまりの衝撃に言葉もありませんでした。見渡すかぎり、瓦礫の山。全壊した家屋、川に浮いている自動車……それに加え、テレビでは伝わってこない、悪臭。
その日は、避難所などにいる地元の人たちから、地震直後に起こった様々な出来事を聞きました。迫り来る津波の中、冷静に子どもを避難させた教員の話。市民を避難誘導する途中で、津波に流されて帰ってこなかった消防団や市の職員の話……。
震災前の陸前高田駅前通り(上、2010年5月)と震災後の陸前高田駅前通り(下、2011年7月)
あまりにも絶望的な惨状を目にして、自らに問いかけました。「いったい、この自分に何ができるのか──」と。
この陸前高田市入りの約2週間前、樋渡市長が上京すると聞いた私は、東京で開催されたある会議に、一人の傍聴者として参加しました。
樋渡市長は、内閣府の入府年次で言うと8年先輩にあたり、私の採用試験(官庁訪問)の面接官です。同じ部署で働いたことはありませんが、2005年に武雄市長に転身されて以降も、メールでお互いに連絡を取り合う間柄でした。
この東京の会議は、「被災地東北のための支援活動をやっていこう」というテーマで、樋渡市長や三重県松阪市の山中光茂市長(当時)が呼びかけ、全国の若手首長が集まっていました。
左から山中光茂松阪市長(当時)、樋渡啓祐武雄市長(当時)、戸羽太陸前高田市長、伊藤明彦陸前高田市議会議長。2013年3月10日、陸前高田市役所にて。
「国の遅い動きを、ただ指をくわえて見ていてはいけない。自治体のほうが、迅速に対応できることも多くあるはずだ」。若手首長たちは、そういう意気込みに満ちていました。
戸羽太・陸前高田市長も、岩手から単身、その会議に出てこられました。震災から間もないこの時期に東京に出てこられたことにも驚きましたが、その会議で戸羽市長が訴えた話に、私を含めた参加メンバーは皆、強い衝撃を受けたのです。
戸羽太陸前高田市長
「『どんな支援が必要ですか』とよく聞かれますが、市庁舎も壊滅した中、数多くの避難所の状況把握が困難なため、お答えできる状況にありません。人的支援、物的支援を受け入れる余裕すらないんです。お願いしたいのは、とにかく一度、現地を見に来てください、ということです」(戸羽氏)
それを聞き、「どんな支援が必要か」と市長に安易に尋ねたことを反省し、「できるだけ早い時期に現地を訪れよう」と一致した参加者は、前述のように陸前高田市を訪問したのです。

不安でいっぱいの中、引き受ける決断

陸前高田への初訪問を終えて東京に戻った私の元に、樋渡市長を介して、戸羽市長から「陸前高田の復興のために副市長として力を貸してほしい」という要請がありました。
樋渡啓祐・武雄市長(左)と、戸羽太市長(右)。2011年9月、陸前高田市役所にて。
私は突然の話にとても驚き、非常に悩みました。地方自治体で働いた経験がない自分に、何ができるのか。また、家族がいる身で、縁もゆかりもない岩手の被災地で生活していけるのか。様々な不安が心をかすめます。
しかし同時に、東京の会議で戸羽市長が最後に語った「この町を、世界に誇れる美しい町にしたい」という言葉を思い起こし、この人の力になりたいという気持ちも強くなっていたのです。
副市長という、市長を支える重要な役職の就任要請をいただくことは、このうえなく光栄なことでした。私という個人より、国とのパイプ役となる官僚としての役割を期待されていることを差し引いても、です。
そして、内閣府に入府当初から、地方自治に興味を持っていた自分にとって、地方行政を間近に見ることができることは、チャンスでもありました。
内閣府にて「東南アジア青年の船」事業など青年国際交流事業を担当した筆者(左)
一方で、冷静に考えてみれば、自分のキャリアにとって、必ずしもプラスになるものではないと考えました。
なぜなら、被災自治体どころか、地方にある国の出先機関にも勤務経験のなかった自分にとって、初めての地方勤務が市役所庁舎も壊滅した町では、経験不足により、うまく職責を果たせない可能性が大いにあったからです。
市長からすれば、「この人は役に立たない」と判断すれば、すぐに東京に追い返すでしょう。大した仕事もできずに東京に戻った人間に対しては、(公務員ですから、そのことで直ちにクビにはならないにしても)人事評価上の大きなマイナスが付くことが考えられました。
この要請を断っても、これまで通り(たとえ残業が多いブラックな仕事だとしても)内閣府での安定した生活が保障されている。わざわざ、リスクを冒す必要はない。そう思うと、心は揺れました。
先のことを考えると不安で、眠れない一晩を過ごしました。しかし、妻とも相談のうえ、お引き受けすると回答していたのです。

就任要請を引き受けた理由

最終的にこの就任要請を受けた最大の理由は、津波で最愛の奥様(享年38歳)を亡くされた中で、復興の最前線に立つ戸羽太市長の力になりたいと思ったからです。
振り返れば、退任した今は、本当に良い経験をさせてもらったと思っています。出向期間は当初予定の2年程度から、2度にわたる延長を経て、4年間という異例の長さとなりました。
この連載では、失敗談を含む私の学びをお伝えしていければと思います。官僚として、してはならない過ちを犯したこともありました。次回はその話をさせていただきます。
*本連載は毎週日曜日に掲載予定です。
(文中写真:著者提供、バナーデザイン:砂田優花)