イグノーベル賞から見るイノベーションの生み方


 「これまでタマネギに泣かされてきたすべての人にこの賞を贈ります」

 2013年9月12日に、米ハーバード大学サンダーズシアターで開催されたイグノーベル賞の授賞式。「タマネギを切った際に涙が出る原因となる新たな酵素の発見」によって化学賞を受賞したハウス食品グループ本社の中央研究所研究主幹、今井真介氏の演説に観客は拍手喝さいを送った。


ハウス食品グループ本社中央研究所の基盤技術開発部長・柘植信昭氏(写真左)と基盤技術開発部研究主幹・今井真介氏(写真右)

 そもそもイグノーベル賞(Ig Nobel Prize)とは、ノーベル賞のパロディーとして、「人々を笑わせ、そして考えさせる研究」に対して贈られるもの。科学ユーモア雑誌「Annals of Improbable Research」の編集者マーク・エイブラハムズ氏が1991年に創設し、今年で23回目を迎える歴史ある賞だ。受賞式には本家ノーベル賞受賞者も多数参加し、脚光の当たりにくい分野の地道な研究に人々の注目を集めさせる役割を担っている。

 授賞式は毎年10月に開催。受賞者の出席費用などは自費で、スピーチには“笑い”が求められる。しかも、スピーチが長くなるとミス・スウィーティー・プーと呼ばれる進行役の少女が「飽き飽きするわ!」などと叫んで邪魔をする仕掛けもある。授賞式が一種のショーになっているのだ。

 日本人の受賞者は2012年までに17組に上り、1997年にはバンダイの「たまごっち」開発者が経済学賞を、2002年にはタカラ(現タカラトミー)の「バウリンガル」開発者が平和賞を受賞している。

 今年は、帝京大学などの研究グループが、心臓移植をしたマウスにオペラの「椿姫」を聴かせたところ、モーツァルトなどの音楽を聴かせたマウスよりも拒絶反応が抑えられたという研究成果で医学賞を受賞。冒頭の演説で会場を沸かせたハウス食品の今井氏らの化学賞と合わせ、2部門を日本勢が制した。日本人による受賞は7年連続。イグノーベル賞は、日本人の“十八番”とも言える。

 今回、今井氏らが受賞した化学賞の対象は、2002年にイギリスの科学雑誌「Nature」に発表した「タマネギの催涙因子生成酵素の発見」の功績。タマネギを切った際に出る催涙成分を作り出す酵素の存在を初めて突き止めたことが評価された。

 だがこの研究は、ほかの研究から派生したいわば“おまけ”の研究だ。本来の研究目的は、タマネギとニンニクを混ぜたときに起こる変色問題の解決だった。

カレールーの研究が快挙達成の発端

 「君、暇そうだからやってみて」。

 ハウス食品の今井氏が「涙の出ないタマネギ」の研究の前身である変色問題の研究に携わったのは、上司からのこんな言葉が発端だった。

 ハウス食品の主力商品であるカレールーを作る際、タマネギとニンニクのペーストを混合するが、混ぜたペーストが緑色に変色する「緑変現象」と呼ばれる問題がしばしば起こっていた。その解決を託されたのが今井氏だった。


「緑変現象」により変色したタマネギとニンニクのペースト

 研究を始めた今井氏は、変色の仕組みを究明するために、タマネギとニンニクに関する酵素の働きや反応を分析。詳細は割愛するが、従来信じられてきた説では実験結果を説明することができず、催涙成分を作り出す未知の酵素の存在が浮かび上がった。この新発見の酵素の働きを抑えられれば、切っても涙の出ないタマネギが作り出せる可能性が生まれたのだ。

 では、どのようにタマネギから催涙成分が出るのか。多少詳しい説明をするので、化学が苦手な人は下の図まで読み飛ばしてもらっても構わない。

 タマネギを包丁で切ると涙が出るのは、切ったことにより酵素が活性化し、揮発性の催涙成分が発生するためだ。この催涙成分は、タマネギ中の主要硫黄化合物(PRENCSO)がアリイナーゼ(Alliinase)という酵素によって分解され、不安定な「中間体」を経由して自動的に生成されると信じられていた。この中間体からは催涙成分のほかに、風味成分も生まれる。

 つまり、主要硫黄化合物がアリイナーゼで一度分解されてしまった後では、催涙成分が勝手に生まれ、途中で発生を抑制することはできないと考えられていた。しかし実際には、中間体から催涙成分が自動的に生成されるのではなく、新発見の酵素が関与していた。


タマネギ中の物質から催涙成分が発生するメカニズム(概念図)

 少々入り組んだ説明になったが、端的に言えば新しく発見された酵素の作用を抑えられれば、催涙成分の発生をピンポイントで抑えられる可能性が出てきたということだ。

“最強”のタマネギを求めて

 疑問に思ったのが、なぜハウス食品が「涙のでないタマネギ」作りにこんなにも真剣に取り組んでいるのか、ということ。カレールーにタマネギを使うとはいえ、そもそも大量生産のために加工は機械化されているはず。当然機械は涙を流さない。

 そんな問いに対し、今井氏は「催涙成分を抑制できれば、より香りが良く、風味成分や活性成分の多い高付加価値のタマネギを開発できる可能性がある」と目的を答える。

 「ハウス食品は、おそらく日本で一番多くのタマネギを使う会社」と語るのは、同じく中央研究所の柘植信昭・基盤技術開発部長。タマネギの高品質化は、ハウス食品にとって非常に重要なポイントなのだ。

 タマネギでは、上図ように酵素の反応によって催涙成分と同時に風味成分・生理活性成分も発生する。催涙成分と風味成分・生理活性成分は元をたどれば同じ物質から発生するため、催涙成分の生成を抑えられれば、それだけ風味成分の発生が増えると考えられる。

 実際、研究の成果を試すために遺伝子組み換えによって酵素の活性化を抑えたタマネギを作ってみたところ、催涙成分が減少することが証明され、それに応じて香りに関係する成分が増加することも確認できた。数字の上では香りの強い高付加価値のタマネギが完成した。ただ、「遺伝子組み換えによって作ったので食べられない」と今井氏。現時点では、実用化の予定もないという。




遺伝子組み替え技術を使って実際に作った“涙の出ないタマネギ”

 とはいえ、「ここまで来たら本当に食べられるものを作りたい」と今井氏は語る。ハウス食品ではタマネギの遺伝子構造の解析も進めており、今後、交配による品種改良や突然変異種の発見などで酵素が不活性なタマネギが生まれる可能性もある。

 一方で、今回の研究を基に、あえて涙を流すためにタマネギ由来の成分を活用することも検討している。新発見の酵素を乾燥させておき、タマネギから抽出した溶液を混ぜることで催涙性のガスを安定的に発生させることが可能。ドライアイの検査などに応用が検討されているほか、「役者が涙を出したい時に使えるのでは」とも今井氏は笑って語る。

日本勢、授賞ラッシュのなぜ

 ユーモラスな科学賞として知名度が高まっているイグノーベル賞。日本勢は7年連続で受賞するなど存在感を増している。

 受賞ラッシュが始まったのは、2007年からだ。

 ウシの排泄物からバニラの香り成分「バニリン」を抽出した研究が評価された2007年に続き、2008年には単細胞生物の真正粘菌に迷路を解く能力があることを発見した研究が受賞。緊急時に眠っている人を起こすためのワサビ警報装置の開発や、自身の話した言葉をほんの少し遅れて聞かせることでその人の発話を妨害する装置の発明など、独創的なアイデアが続く。受賞者も大学教授や研究機関の研究者から民間企業の研究員までと幅広いのが特徴だ。技術者の多様性が強さの源泉とも言えそうだ。

 イグノーベル賞の歴代受賞内容を見て思うのは、「こんなところに研究題材があったのか」という驚きだ。どれも創意工夫にあふれ、実は身の回りに当たり前のように起きていることが起点になっているものも多い。

 今井氏は今回のタマネギの研究に関して、「タマネギから催涙成分が発生する仕組みは教科書に載っていて、この業界では誰しもが知っている当たり前のことだった」と語る。だが、そこに疑問を持ったことが、今井氏の“勝因”。

 「私は酵素の専門家でもないし、有機のスペシャリストでもない。実学の中から自然に疑問を感じただけ」と今井氏。今回の世紀の発見は、専門外であったことが功を奏し、既成概念の打破につながったのだろう。

 疑問に持つこと、当たり前のことを当たり前と思わないこと——。