成功できるかどうかはGRIT、すなわち「やり抜く力」で決まる──。ビジネスやスポーツの世界で偉業を達成するには「才能」より「やり抜く力」が重要だと解明したペンシルベニア大学心理学教授のアンジェラ・ダックワースが、「やり抜く力」を高めるための「目的の見出し方」を伝授する。

鉄人は必ず「他者」を目的にする

「興味」は情熱の源だ。そして「目的」、すなわち人びとの幸福に貢献したいという意思も、やはり情熱の源だ。「やり抜く力」の強い人びとが持っている深い情熱は、「興味」と「目的」によって支えられている。
なかには早々と「目的」に目覚める人もいる。アレックス・スコットのような「やり抜く力」の鉄人のケースを考えると、やはりそうとしか思えない。
アレックスは物心ついたときから、ずっと病気だった。1歳のとき、神経芽腫と診断されたのだ。そんなアレックスが、4歳の誕生日を迎えてまもなく母親に言った。
「退院したら、レモネードの売店をやりたいの」
そして、言葉どおり実現した。アレックスは5歳になるまえに最初のレモネードスタンドを開店し、そこで稼いだ2000ドルを、「まわりの子たちに助けてもらったから、みんな を助けてください」と言って、病院の担当医たちに寄付したのだ。
4年後、アレックスはこの世を去った。しかしアレックスの行いによって奮起した多くの人たちが、レモネードスタンドを次々に開店した。寄付金総額は100万ドルにものぼった。
遺族がアレックスの遺志を継いで設立した「アレックスのレモネードスタンド財団」は、がん研究のため、現在までに1億ドル以上もの寄付を行っている。
アレックスは非凡な存在だった。ほとんどの人は、まず自分が楽しいと思うことに興味を持つことが多い。自分の個人的な興味がほかの人の役にも立つかもしれないと気づくのは、もっとあとのことだ。
言い換えれば、一般的な順序は、どちらかと言えば個人的な「興味」 からスタートして、やがて真剣に取り組むようになり、ついには人の役に立つという「目的」を見出すという流れになる。
心理学者のベンジャミン・ブルームは、この「3段階の発展形式」に最初に注目した学者のひとりだ。
30年前、ブルームは世界トップクラスのアスリートや、アーティストや、数学者や、科学者らへのインタビューを開始したとき、人びとがどうやって各分野のトップに上りつめたのか、その方法や秘訣を学びたいと思っていた。
だがそれだけでなく、研究対象のあらゆる分野に共通する一般的な学習形式を発見したのは、予想外の収穫だった。
幼年期の教育やトレーニングの面などで多少のちがいはあるにしても、エキスパートたちみな、この3段階の発展形式によって進歩を遂げたのは明らかだった。
本書の第6章ではブルームによる「初期」について述べ、第7章では「中期」について述べたが、本章では最後のいちばん長い段階、「後期」について述べる。ブルームの言葉でいえば、自分が取り組んできたことに「さらなる大きな目的と意義」を見出す段階だ。

「これは人の役に立っている」と考える

「やり抜く力」の鉄人が、自分の目指していることには「目的」があると言うとき、そこにはたんなる「意図」よりも、もっと深い意味が込められている。「目的」が明確であるだけでなく、その「目的」には特別な意味があるのだ。
「どういう意味か、もう少し詳しく教えていただけますか?」と訊いてみると、ときには自分の思いを言葉で的確に表現するのに苦労する人もいる。しかし誰もが、ひとりの例外もなく口にするのは、他者のことだ。
「うちの子どもたち」「私のクライアントたち」「僕の生徒たち」など具体的な人を指す場合もあれば、「この国」「このスポーツ」「科学」「社会」など、もう少し広く一般的な人びとを指す場合もある。
しかしどの場合も、伝えようとしているメッセージは同じだ。昼夜を問わず苦労を重ね、 挫折や失望や苦しみを味わい、犠牲を払っても──それだけの価値はある。なぜなら最終的に、その努力はほかの人びとの役に立つからだ。
つまり「目的」という言葉の中心的な概念は、「自分たちのすることは、ほかの人びとにとって重要な意味を持つ」ということになる。
アレックス・スコットのような早熟の利他主義者のことを思い浮かべれば、他者中心の 「目的」の例としてわかりやすいだろう。

幸福になる方法は「快楽を追うこと」と「目的を追うこと」

「やり抜く力」の鉄人たちが、「自分のやっていることは、ほかの人びとと深くつながっている」と語るのを何度も耳にした私は、その「つながり」の意味を詳しく分析することにした。
「目的」は当然、重要なものだが、ほかの優先事項と比較してどれくらい重要なのだろう? 自分にとって最重要の目標に一心不乱に取り組むのは、「無私無欲」というより、ある意味ではむしろ「利己的」なようにも思えた。
アリストテレスは、幸福を追求する方法は少なくともふたつあることを、いち早く認識していた。ひとつは「eudaimonic」、すなわち「内なる良い精神」と調和すること。もうひとつは「hedonic」で、「利己的な目先の快楽を追求する」ことだ。
この問題についてのアリストテレスの見解は明らかで、利己的な快楽を追求する生き方は原始的で野蛮であり、良心と調和した生き方こそ高貴で純粋であるとして支持した。
ところがじつは、幸福を追求するふたつの方法には、古代からの進化の歴史がある。
人間はいっぽうでは快楽を追求する。なぜなら全般的に言って、快楽をもたらすものは生存の確率を高めるからだ。
たとえば、もし人類の祖先が食物と性交に対する強い欲求を持っていなかったら、命を長らえ、多くの子孫をつくることはできなかっただろう。人間はだれでもある程度は、フロイトが述べたとおり「快楽原則」によって動かされている。
いっぽうで、人間は進化し、「意義」と「目的」を探求するようになった。
もっとも深い意味において、人間は社会的な生き物であり、周りの人びととつながって互いに奉仕することも、やはり生存の確率を高める。孤独な人よりも、周りの人びとと助け合う人のほうが生き残りやすい。
社会は安定した人間関係によって成り立っており、私たちは社会に属することで、食糧を手にし、悪天候や敵から身を守ることができる。つまり、つながりを求める気持ちも、快楽への欲求と同じように、人間の基本的欲求なのだ。
したがって、人間は誰でもある程度は、「快楽」を得られる幸福も、「意義」と「目的」を得られる幸福も、どちらも追求するようにできている。しかし、どちらを多く追い求めるかは、人によって異なる。「快楽」よりも「目的」を重視する人もいれば、その逆の人もいる。

彼らはどれだけ「快楽」と「目的」を追っているか?

「やり抜く力」の根底にあるモチベーションを探るため、私は1万6000名のアメリカ人 の成人にグリット・スケールへの回答を依頼した。アンケートには追加の質問事項をたくさん設けた。
たとえば「目的」については、つぎのような表現が出てくる。「私のやっていること は、社会にとって重要な意味がある」。それに対して参加者は、その表現が自分自身にどの程度当てはまると思うかを、1〜5段階で回答する。
同様に、「快楽」の重要度についても、参加者は6つの表現を読んで回答する。たとえば、つぎのような表現だ。「私にとってよい人生とは、楽しい人生だ」
このようなアンケートの質問に対する回答を集計し、各参加者が「目的」と「快楽」について、それぞれどの程度の志向を持っているかを示す1〜5までのスコアを割り出した。
上のグラフは、その大規模実験のデータを用いたものだ。これを見てもわかるように、「やり抜く力」の強い人びとは修道士でもなければ、快楽主義者でもない。快楽の追求という点から見れば、ふつうの人と何ら変わらない。どんなに「やり抜く力」の強い人にとっても、ある程度の快楽は重要だ。
それでいて「やり抜く力」の強い人びとは、ふつうの人にくらべて、「意義のある生き方」「ほかの人びとの役に立つ生き方」をしたい、というモチベーションが著しく高い。さらに「目的」のスコアが高いほど、「やり抜く力」のスコアも高いことがわかった。
これはべつに、「やり抜く力」の鉄人たちはみな聖人だという意味ではない。「やり抜く力」のきわめて強い人は、自分にとっての究極の目標は、自分という枠を超えて、人びとと深くつながっていると考えている、ということだ。
私がここで言いたいのは、「目的」はほとんどの人にとって、とてつもなく強力なモチベーションの源になっているということ。例外はあったとしてもきわめて少なく、この主張の正しさを証明している。

3番目の答えの人は「やり抜く力」が強い

自分の最重要の目標をとおして世の中の役に立てる人は、本当に幸福だ。そういう目標を持っている人は、どんなにささいなことや退屈な作業にも、意義を見出すことができる。ではここで「レンガ職人」の寓話を例に考えてみよう。
ある人がレンガ職人に「なにをしているんですか?」とたずねた。すると、三者三様の答えが返ってきた。
1番目の職人は「レンガを積んでるんだよ」。
2番目の職人は「教会をつくっているんだ」。
3番目の職人は「歴史に残る大聖堂を造っているんだ」。
1番目のレンガ職人にとって、レンガ積みはたんなる「仕事」にすぎない。2番目の職人にとって、レンガ積みは「キャリア」。3番目の職人にとっては、レンガ積みは「天職」を意味する。
多くの人は3番目の職人のようになりたいと思いつつ、実際のところ、自分は1番目か2番目だと思っている。
イェール大学経営大学院教授エイミー・レズネスキーが調査を行ったところ、「3人のレンガ職人のうち、自分はどれに相当すると思いますか?」という質問に対して、人びとはまよわずに即答した。
その答えは「あなたの現在の仕事は、以下のどれに当てはまりますか?」という質問への回答とほぼ同じ割合で分かれていた。
仕事(「私にとってこの仕事は、呼吸や睡眠のように生きるために必要なことだ」)
キャリア(「私にとってこの仕事は、もっといい仕事に移るためのステップだ」)
天職(「私にとってこの仕事は、人生でいちばん大切なもののひとつだ」)
私もレズネスキーと同じ調査を行ったところ、自分の職業を「天職」だと思っている人 は、ごくわずかしかいないことがわかった。そしてやはり予想どおり、そういう人たちは、 自分の職業を「仕事」あるいは「キャリア」と思っている人たちにくらべて、「やり抜く力」 が強いことがわかった。
自分の職業を「天職」だと思っている幸福な人たちは(「仕事」や「キャリア」だと思って いる人とは反対に)、「私の仕事は世の中をよくするのに役立つ」という言葉をよく口にする。そのような人たちは、自分の仕事や人生に対して全体的にもっとも満足している。
ある研究では、自分の職業を「天職」だと思っている人たちは、自分の職業を「仕事」や「キャリア」だと思っている人にくらべて、疾病休暇の取得日数が3分の1程度しかないことがわかっている。

「意義を感じない仕事」を続けることは耐えられない

さらに、982名の動物園の飼育員(80%は大卒だが、平均年収は2万5000ドル)を対象に行われた最近の研究では、自分の職業を「天職」と思っている飼育員(「動物のために働くのは、自分の天職だと感じています」)は、強い目的意識を示すことがわかった(「私の仕事は世の中の役に立っています」)。
また彼らは、時間外手当のつかない場合や勤務時間の終了後でも、自分から進んで病気の動物の世話をした。さらには、道徳上の義務感も強く感じていた(「自分が担当する動物たちのことは、できるかぎりよく面倒をみる義務があります」)。
当然のことながら念のため言っておくと、真っ当な暮らしをするために働き、それ以外に職業的な野心を持たなくても、べつに「悪い」ことではない。しかしほとんどの人は、それ以上に多くを望んでいる。
ジャーナリストのスタッズ・ターケルも、1970年代にあらゆる職種の労働者100名以上にインタビューを行った結果、同じ結論に達した。
ターケルの調査でも、自分の職業を「天職」だと思っている人はごくわずかだった。
しかし、「天職」に就きたいと思っている人が少なかったわけではない。ターケルの結論はこうだ。私たちはみな、「毎日の糧だけでなく、意義を求めている。月曜から金曜までは死んでいるような暮らしでは満足できない」。
しかしインタビュー調査を進めるうちに、ターケルは「日々の仕事を面白いと感じている、ごくわずかな幸福な人びと」にも出会った。
第三者の視点から見ると、「天職」を持っている人たちは、必ずしも「目的」を見出しやすい職業に就いていたわけではなかった。石工もいれば、製本工もいた。
ロイ・シュミットという58歳のゴミ収集員は、ターケルにこう語った。ゴミ収集の仕事は疲れるし、汚いし、危険だ。自分も前職は事務職だったし、ほとんどの人にとっては、事務職などほかの職業の ほうが、どれもずっと魅力的に見えることはよくわかっている。しかし、彼は最後にこう言った。
「でも僕はこの仕事がくだらないとは思いません。社会にとって重要な仕事だから」

どの職業でも「天職」と感じている人の割合は変わらない

レンガ職人の寓話では、3人の職人は同じ職業に就いていても、主観的経験(自分の仕事 をどう思っているか)は大きく異なっていた。
さらにエイミー・レズネスキーの研究は、「天職」というのは、職務記述書の中身とはほとんど関係ないことを示している。それどころかレズネスキーは、どの職業も「仕事」「キャリア」「天職」のいずれにもなり得ると考えている。
たとえば、レズネスキーは秘書たちを対象に調査を行ったとき、秘書の職業を「天職」だと思っている人はそれほどいないだろうと予想していた。
ところが、アンケート調査の結果を見てみると、「自分の職業は、仕事、キャリア、天職のうちどれに該当すると思いますか?」という質問に対し、秘書たちの回答は、ほかの職業についての調査結果と同じ割合で、3つに分かれていた。
レズネスキーは、「仕事」「キャリア」「天職」のちがいは、職種のちがいによって生じるものではないという結論に至った。それよりも重要なのは、本人が自分のやっていることを 「どう思っているか」だ。
たとえばレンガを積むにしても、ただやるべきことをこなしているだけ(仕事)か、ステップアップするため(キャリア)だと思って取り組んでいるのか、 自分よりも大きな存在とつながるための重要な仕事(天職)だと思って取り組んでいるのか、ということだ。
私もその考え方に賛成だ。肩書きよりも重要なのは、本人が自分の仕事をどう見なしているかだ。
それはとりもなおさず、わざわざ職業を変えなくても、ただの「仕事」だと思っていたものが「キャリア」に、そしてついには「天職」に変わる可能性もあるということだ。 先日、私はレズネスキーにたずねた。
「アドバイスを求められたときは、どんなことを言うんですか?」
「天職は見つけるべきものだと思っている人がすごく多いんです」レズネスキーは答えた。 「天職は魔法のように神秘的なもので、きっとこの世のどこかにあるはずだ──そんなふうに思ってしまうせいで不安になるのです」
それに対し、私は「興味」についても同じような誤解があることを指摘した。興味を持続させるには、みずから積極的に掘り下げ、深めていく必要があることに気づいていない人は多い。アドバイスを求める人に対し、レズネスキーはこう説明する。
「天職との出会いは、完成したものを見つけることではありません。受け身の姿勢ではなく、自分から積極的に行動することが大事です。たとえば清掃員でもCEOでも、職業に関係なく、どんな人もつねに自分の仕事を見つめ直して、問いかけることはできるはずです。 この仕事はどんなふうに、ほかの人びととつながっているだろう? 世のなかの役に立っているだろうか? 自分のもっとも大切な価値観を表しているだろうか?」
言い換えれば、自分はただ「レンガを積んでいるんだ」と言っていた人も、「歴史に残る大聖堂を造っているんだ」と思えるようになるということだ。
※ 続きは明日掲載予定です。
(写真:wildpixel/iStock)
本記事は『やり抜く力──人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける』(アンジェラ・ダックワース〔著〕神崎 朗子〔訳〕、ダイヤモンド社)の第8章『目的』を見出す── 鉄人は必ず『他者』を目的にする」の転載である。