【池田貴広】帰宅部ガチゲーマーから、BMXギネス世界記録&世界王者へ

2016/6/8
2011年6月、フランス南西部、地中海沿岸の都市モンペリエ。  
当時21歳のBMXプロライダー・池田貴広は、中世を思わせる古都で開催されたエクストリームスポーツの世界大会「FISE WORLD」で、目にもとまらぬ高速スピンを連発していた。
BMXは「Bicycle Motocross」の略で、小型の自転車に乗りながら繰り出す技を競う。
池田はBMXの競技の1つ、フラットな舞台でパフォーマンスを披露する「フラットランド」のライダーだ。フラットランドでは、いくつかある技をバランスよく組み合わせる選手が多い。
その中で、スピードとバリエーション豊かなスピンでひたすら回転し続ける池田の異色のパフォーマンスは観衆の心をつかみ、大きな声援を浴びた。

シルク・ドゥ・ソレイユの誘い

この大会での成績は8位と振るわなかったが、池田の存在に目を付けた人物がいた。「FISE WORLD」の視察に来ていた、世界最高峰のサーカス団、シルク・ドゥ・ソレイユのキャスティング担当者だ。
元五輪選手、各国代表経験者なども多く所属するシルク・ドゥ・ソレイユは、「アーティストバンク」という名のデータベースを持っている。キャスティング担当者が実力を認めたパフォーマーをバンクに登録し、将来、新たな才能が必要になったときに登録者の中からリストアップするのだ。
スカウトは、池田にこう告げた。
「次にBMXをシルク・ドゥ・ソレイユで使うときには、連絡します」
シルク・ドゥ・ソレイユから声をかけられてうれしくないパフォーマーはいないだろう。プロとはいえ、まだ東洋大学の学生でBMX一本では食べていける状態ではなかった池田は、まさかのオファーに拳を握り締めた。
しかし、期待に反してそれからまったく音沙汰なし。池田は「FISE WORLD」の後、高速スピンの回転数でギネス世界記録を次々と更新することでプロライダーとして世界的に名を馳せるようになり、次第に、モンペリエでの話は頭の片隅に残っている程度になっていた。
ところが、「FISE WORLD」から4年後の2015年3月、見慣れないアドレスから一通のメールが届いた。
「フロリダのショー『La Nouba』(ラ・ヌーバ)に出演しているBMXのパフォーマーが負傷離脱した。バックアッパーを探している。4月からフロリダに来られるか」
シルク・ドゥ・ソレイユからの出演オファーだった。
シルク・ドゥ・ソレイユは常設のステージとツアーを世界展開しており、各地でショーが行われているのだが、BMXのライダーは「ラ・ヌーバ」のパフォーマーの一人しかいない。バックアッパーとはいえ、星の数ほどいるBMXライダーの中から、その一人きりの枠に選ばれたのだ。
メールを読んだ池田に、迷いはなかった。
4年越しでようやくチャンスがきたか――。
1カ月後にフロリダに来てほしいという急な依頼だったが、池田は「イエス」と返事を送った。
当時、すでに4つのギネス記録を保持していたBMX界の若きスピン王者が、新たな挑戦を決意した瞬間だった。
池田貴広(いけだ・たかひろ)
1990年千葉県生まれ。BMXのプロライダー。2010年に国際大会「RedBull Flamenco Flatland」で優勝。2011年から高速スピンのギネス世界記録を4年連続で更新。世界を股にかけて競技活動を行う一方、シルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとしても活躍している。(写真:© Motoyoshi Yamanaka)

中学入学後はポケモン三昧

世界屈指のパフォーマーが名を連ねるシルク・ドゥ・ソレイユから誘いを受けるということは、「池田も幼少時から運動神経と身体能力が抜群の少年だったのでは?」と想像していたが、本人は「全然です」と否定する。
確かに、スポーツで目立つタイプではなかったようだ。
小学3年生から始めたサッカーは、ずっと2軍。中学に入ると、いわゆる部活の雰囲気に嫌気がさして、3カ月で退部した。
そして、中学校1年生の夏から帰宅部になった池田が、打ち込んだのがポケモン。
「僕は友だちとゲームをするよりも一人でやり込むタイプなので、学校が終わった後はまっすぐ家に帰って、ずっと一人でゲームをしていました。中でもポケモンがめちゃくちゃ好きで、本気でやっていましたね。何が本気なのかわかりませんが(笑)」
両親は寛容で、部活をやめた息子が家で何時間もゲームをしていても、気にする様子もなかった。だから、学校以外の空き時間をすべてポケモンに投じるほど没頭した。

ゲームを売却し、BMX自腹購入

自らを「ガチ」と表するゲーマーだった池田が、BMXに出会ったのは偶然だった。
ある日、友人たちと地元千葉市の繁華街に出向いた際、たまたま通りがかった公園で、BMXの練習をしている人たちがいた。
初めてBMXを間近に見た池田は、小さな自転車でウィリーをしたり、スピンをしている姿を見て、なぜか強く惹きつけられたという。
「あれ、面白そうだな」と感じた池田は、帰宅すると自分の自転車、いわゆるママチャリに乗って、公園で見た技を真似してみた。当然のことながら、なに一つ成功しない。
あの自転車はなんだったのか。インターネットで調べてみると、BMXという自転車と、それを使ったスポーツの存在を知った。初心者用のBMXが、5万円以上もする高価な自転車だということもわかった。
一度、公園で目にしただけなのにBMXが無性に欲しくなった池田は両親に相談したが、ゲーム三昧の毎日には何も言わなかったにもかかわらず、BMXは「危ない」という理由で反対される。池田はそれなら自分で手に入れようと、思い切った行動に出た。
「お小遣いとお年玉を貯めたんですが、それでも足りなかったから、ポケモンだけ残して、ほかのゲームを全部売ってBMXを買うお金にしました。今思うとなぜだかわからないけど、それぐらい欲しかった」
ガチのゲーマーだった池田が、ゲームと決別しても良いと思えるほどBMXを求める気持ちは強かった。「理由はわからない」というのだから、それは燃え上がるような恋と似たような感情だったのかもしれない。

一念発起し、大人の仲間に

中学2年生になり、なんとかお金を貯めてBMXを購入した池田は、近所の公園に向かった。
まだYouTubeもスマホも存在しなかった当時、池田は自宅のパソコンのクイックタイムプレーヤーで動画を何度も見て、それを覚えて近所の公園に行き、見よう見まねで技の練習をした。
しかし、練習を始めてから3カ月経っても、なに一つうまくならなかった。
ゲームと同じように、池田は誰かとつるむよりも独りで練習することを好むが、このままではらちが明かない。
意を決した池田はある日、自転車を担いで電車に乗り、初めてBMXを見た公園に向かった。その日も3、4人が練習をしていたのだが、全員、見た目は20代以上。14歳にとって、大人の男たちに話しかけるのはハードルが高い。
自転車にまたがったまま、どうしたものかと入り口でモジモジしていたら、一人の青年が近づいてきて、池田を誘った。
「一緒にやろうよ」
20代から30代のライダーたちは中学生の池田をかわいがり、BMXの操り方を基礎から教えた。この出会いがなかったら、今の池田はない。
ギネス世界記録保持者でもあるシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーは、なんでもない千葉の公園から生まれたのだ。(文中敬称略)
(写真:© IKUMA)