わが国のエネルギー政策の根幹とその推移
朝比奈一郎「日本はエネルギー不足と格闘し続けてきた」
2016/4/21
私は塾頭を務めている「青山社中リーダー塾」でエネルギー政策の講義をする際、資源エネルギー庁(よく「エネ庁」と略称されます)に着任した際のエピソードから話を始めることにしています。
塾生たちに「エネルギー不足と格闘し続けてきた日本」を現実的に理解してもらうために。
本稿でも、まずはそこから始めたいと思います。
油価に翻弄された私の役所人生
今から約10年前の2005年の初夏。当時30代になったばかりの私は、エネ庁の石油天然ガス課の課長補佐になる内示を得ました。
当時の私は、いわゆる小泉改革を推進すべく内閣官房に出向しており、特に、特殊法人・認可法人の改革を担当していました。
「民でできることは民で」の大合唱の中、特に資源確保のための国策組織ともいうべき「石油公団」への風当たりは、道路公団などと並んで、とても強かったことを思い出します。
「石油はもはやコモディティ化した。国が前面に出て上流の油田権益を取りにいく必要はなく、海上貿易で普通に買ってくれば良い。ほかの品物と変わりない。戦略物資と騒いで権益を押さえにいっても、それは、無駄な投資に終わる。石油公団が出資する個別事業会社などは、単なる天下りの巣窟だ」
という論調がとても強かった時代でした。
私は石油公団の直接の担当ではなかったものの(出向元の省庁が所管する法人は担当しないルール)、同法人は、血税を垂れ流す「悪の法人」として事実上解体され、機能も規模も縮小して他法人と統合し、石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)となりました。
ところが、ちょうどその頃から、中国の資源「爆買い」や中東などでの新たな資源ナショナリズムの台頭などにより、原油価格が急上昇し始めました。
皮肉なことに、今度は、国が先頭に立って資源外交を展開したり、リスクマネーを供給したりして石油の上流権益を取りにいくべきだとの議論が強くなっていきました。
そんな中、私は、ロシアとの資源外交や、事実上解体した石油公団に代わる新たな国策会社の強化などを担当するべく、エネ庁に行くことになりました。内閣官房が解体した組織を、今度はエネ庁で強化するために。
エネ庁で浴びた一撃
異動先の先輩から、最初に、「朝比奈君、君はエネ庁勤務は初めてだけれど、国民生活にとってエネルギーがどのくらい大切か考えたことある?」と問われた私は、正直に、「あまり考えたことがありません」と答えました。
ただ、
「思うに、エネルギーは水や空気のようなもので、実は大事ですが、希少性についての懸念が上昇するときだけ国民生活に影響すると思います。オイルショック時が典型ですが、石油関連製品・商品の品薄状態に起因するパニックは、最も国民生活に影響を与える例であり、そうした事態は引き起こさないようにしなければならないと思います」
という趣旨のことを付け加えました。まあ、役人としては模範解答だと思っていました。
すると先輩は、
「確かに70年代の2度のオイルショックは国民生活の混乱を招いた象徴的な事例だし、極力避けなければならない事態だ。ただ、ある意味、日々の生活やマクロ経済が乱れるくらいならまだマシだともいえる。エネルギー政策は、本質的には、経済や暮らしの混乱などでは済まない、国家の存亡・国民の生命に関わる超重要マターなんだ」
と述べ、日米開戦の背景、ソ連の崩壊(私はその先輩から特に対ロシア交渉を引き継ぐことになっていました)、イラク戦争などの事例を挙げました。
紙幅の関係で詳述は難しいのですが、おおむね以下の話を聞いたと記憶しています。
異動先の先輩からの話
すべてを陰謀論で片づけるのは乱暴だが、実際に大量破壊兵器も持っておらず、アルカイダ等との関係もほぼなかったフセイン政権が、2001年のテロの「とばっちり」を受けて米国に攻撃・解体された裏には石油利権をめぐる思惑も影響していたとみる説がある。エネルギーをめぐって国が吹き飛んだわけだ。
また、少しさかのぼるが、ソ連崩壊に、原油価格低迷による経済破綻が影響していることは有名な話だ。そして、それには、オイルショック時の原油価格高騰で潤沢な資金を得た大産油国である同国のアフガン侵攻への反発が影響している。
つまり、米国がサウジ政府に働きかけて増産を促し、原油価格を低迷させたことはほぼ明らかだ。
また、わが国について考えても、約300万人の犠牲者を出して国家が崩壊した先の大戦に、エネルギー問題が大きく影響していることが有名だ。
実際に地政学的に米軍の矢面に立つことが明らかだった海軍では、主に戦線が大陸だった陸軍とは異なり、比較的真剣に彼我の戦力を比較していた。
慎重派(日独伊三国同盟に反対し、日米開戦を避けようとした海軍の三羽烏こと米内光政、山本五十六、井上成美などが代表的)も少なからずいた。
特にエネルギーに関しては、開戦前の1939年の日本の石油輸入量494万klのうち、約9割の445万klを米国から輸入していたというデータがあり、戦争直前の1941年7月に日本は資源確保も視野に入れて南部仏印進駐をしたが、それに対してアメリカは石油の全面輸出禁止をしたという経緯がある。
当時ほとんどの艦船が重油で動いていたことを考えれば、最初から日本はエネルギー面で苦戦せざるを得なかった。
山本連合艦隊司令長官の強引ともいえるリーダーシップで、日本海軍は基本戦略をそれまでの常識だった迎撃作戦から、奇襲攻撃に切り替えたが、その時点で考えればやむを得ない結論ともいえる。
現在の大慶油田やサハリンの油田が、仮に当時開発できていれば、歴史は、少なくとも多少は違っていたかもしれないし、米国とのやり取りや南方進出など、エネルギー問題が与えた影響は極めて大きい。
歴史を少しひもとくだけでも明らかだが、エネルギーは、経済や国民生活の混乱を引き起こすどころか、国家や国民を滅亡させかねない要因ともなりうる重要マターなんだ。
日本のエネルギー政策の根幹
先輩の話は、概略上記の通りでしたが、歴史の傍観者としてではなく、政策当事者としてエネルギー政策に携わるということの意味が迫力をもって理解でき、同時に背筋が寒くなったことを思い出します。
すべてがエネルギー問題のせい、というわけではありませんが、約300万人もの犠牲を出した先の大戦への反省から考えて、また、昨今の国際情勢をみても、シェールガス革命や大産油地である中東の地政学リスクが大きく日本や世界を揺らしていることは確かですので、エネルギーの安定供給確保は、現在に至るまで、戦後日本の最重要課題の一つであるはずです。
しかし、日本のエネルギー自給率は、石炭から石油へのシフトが進んだ1960~70年代以降、20%を超えることはほぼなく、しかも、(燃料のウランは海外からの調達であるにもかかわらず)「準国産エネルギー」として自給率にカウントしている原子力を除くと、その比率は、わずか4~6%の間を推移してきました。
わが国のカロリーベースの食料自給率が約4割であることを考えても、極めて低い数字であるといえます。
そして、いまだに、1次エネルギーの8割超を占める化石燃料(震災による原発停止後は9割超)の約半分を石油が占めている中、日本の石油輸入は、現在に至るまでずっと、約8~9割を中東に依存しています。
もちろん、現在は代替エネルギーも多様化し、また、原油取引についても、先物やスワップなどが盛んになっていて、戦前と同じというわけではありませんが、表面的には先述の先輩が指摘した通り、かつての石油の9割の輸入元だったアメリカが中東にシフトしただけの極めて脆弱(ぜいじゃく)な一本足です。
こうしたこともあり、なかなか数字的には功を奏していないのですが、わが国のエネルギー政策の基本にあったのはいわゆる「2つの多様化」とも呼ばれる1次エネルギーの確保策でした。
一つは、わが国のエネルギー安定供給上の根幹ともいえる石油の調達先を中東以外に多様化すること、そして、もう一つは、そもそものエネルギー源を多様化することでした。
なお、このほかの重要テーマとして、石油等の備蓄や流通の効率化、また、エネルギーの「使用」にかかる政策というのがあります。
後者については、2次エネルギーの代表格である電気やガスの安定供給やその効率的使用、特に省エネルギーの推進という文脈で、産業・民生・運輸の各部門においてさまざまな努力がなされてきたわけですが、これについては、昨今話題になっている電力自由化の帰趨(きすう)を含め、専門家であるほかの論者の解説に委ねたいと思います。
2つの多様化戦略の中身
先述の通り、1つ目の多様化は、まず、1次エネルギーの中核をなす石油の調達の多様化ということです。
ホルムズ海峡に面する産油国への依存度を数値化することもありますが(ホルムズ依存度)、中東で紛争が発生してホルムズ海峡が閉鎖されてしまうと、同地域への石油の依存度が高い日本はひとたまりもありません。
したがって、具体的には中東地域以外からの石油の調達、たとえば、サハリンや東シベリアからの調達、あるいはベネズエラやブラジルなどの中南米からの調達を考えるということが、まずは政策の柱でした。
油価の高騰時には、相対的に輸送コストが小さくなるため、またスワップ取引が盛んになったこともあり、仮に日本からの距離が遠くても、調達先を多様化する意味があったといえます。
私が石油天然ガス課にいた頃は、遠く、アフリカのアンゴラなどとも交渉を進めていました。
この1つ目の多様化は、広義には、油田の権益(いわゆる上流権益)を日本企業が取得することも含まれます。
すなわち、石油を誰かから買ってくるという意味での調達ではなく、出資というかたちでリスクマネーを拠出し、井戸元の開発に携わることで石油に対する一定の権益(取り分)を確保するやり方です。
マイナー出資だけして、キャッシュコールに応じるだけの場合でも権益といえば権益ですが、安定供給という観点からは、本来は、いわゆるオペレーターシップを握っての自主開発をすることが望ましいことは確かです。
ただ、この点、わが国の企業は、国際的にみて、とても優位な地位にあるとはいえません。
冒頭に述べた石油公団の事実上の解体以降、政府は、インドネシア石油を改組して国際石油開発とし(略称はどちらもINPEX)、その後、帝国石油も合併して、いわゆるナショナルフラッグカンパニーとして、油ガス田の上流権益取得の先兵として育てました。
そのほか、JOGMECや国際協力銀行や日本貿易保険を通じて、リスクマネー共有を円滑にし、日本企業の上流権益獲得を側面支援してきました。ただ、自給率を大幅に上昇させるには至っていないのが現状です。
2つ目の多様化戦略とは、上述の通り、エネルギー源を多様化させるべく石油からの脱却を図る試みですが、まず、石油以外の化石燃料の活用、特に天然ガスの活用が最も親和性が高いといえます。
わが国は天然ガスを液化したかたち(液化天然ガス〈LNG〉)で海外から調達していますが、LNGの調達先は東南アジアや豪州の割合が非常に高く、その大宗を占めてきたため、中東依存からの脱却という観点からは非常に好都合です。
しかも、CO2の排出量も石油に比べて少なく環境にも優しいため、官民挙げてのLNGシフトを推進してきました。経産省も、もともと石油部開発課という名称だった部署を「石油・天然ガス課」と改名するなどして、この動きを後押ししてきています。
その結果、1次エネルギーに占める天然ガスの割合は、原発事故前でも約2割になっており、事故後はさらにその比率が高まっています。
そのほか、最近では、ほかの化石燃料として、石炭の活用(たとえばガス化)や、 メタンハイドレートなども注目されていますが、これらも当然、脱中東依存という意味では有力な手段となり得ます。
そのほか、化石燃料以外にも、多種多様な再生可能エネルギーの推進(小水力、風力、地熱、太陽光など)も行ってきており、最近では、固定価格買取制度(いわゆるFIT)が注目されています。
ただ、いまだに再生可能エネルギーが1次エネルギーに占める割合は、水力も合計して10%にも満たないのが現状です。そんな中で、エネルギー源の多様化戦略の切り札となってきたのが原子力でした。
エネルギー基本計画と「切り札」としての原子力
2011年3月の東日本大震災とそれに起因する原発事故から早くも5年が経過しました。
2カ月前に、たまたま機会を得て福島第1原発の敷地内を防護服を着て視察させていただきましたが、確かに状況はコントロール下にあるという印象を受けたものの、その傷痕の深さを痛感せざるを得ませんでした。
皮肉なことに、この事故からわずか9カ月前の2010年6月に、当時の菅直人内閣の下で閣議決定されたエネルギー基本計画で、まさに切り札とされたのが原子力でした。
エネルギー基本計画とは、2002年に成立したエネルギー政策基本法(第12条)に基づき、2003年10月に策定されたものです。2007年に1度改定され、2010年は2度目の改訂でした。
計画策定時の20年後の2030年をターゲットとして、エネルギー自給率の向上(19%→40%)、CO2排出の半減、などが打ち出されますが、これらの項目で、目標実現のための切り札になったのが原子力でした。
具体的には、発電に占める原発の比率を29%から53%にすることが盛り込まれました。
今となっては考えられませんが、なんと、原発の割合を半分以上にしようという計画が大真面目に議論されて、国家的に成立していたのです。
まさかあれほどの大事故が起こることは想定外だった時期では、たとえば、環境を重視する左派的な人たちの中にも、CO2をあまり排出しない原発をむしろ推進しようとしていた方々が少なくありませんでした。
1954年にわが国最初の原子力予算が認められ、55~56年には、原子力基本法や原子力委員会が成立・設置されるなど、石油資源のないわが国にとって、原子力は、まさに、夢のエネルギーともいえる存在でした。
2014年に新たなエネルギー基本計画が成立し、2015年には、経産大臣の諮問機関である「総合資源エネルギー調査会」にて、2030年における原発の比率は20~22%という数字が出されました。
ただ、2014年のエネルギー基本計画は、あの状況の中でよく書かれたとは思うものの、中身は総花的で特に大きなコミットメントはなく、また、その後出た原発の比率についても、再稼働のめどがなかなか立たない中では、達成困難な数字にもみえます。
私自身は、安全保障上の理由や、できるだけ多様なオプションを持つことでエネルギー安定供給の確保に努めるべきであるというスタンスから、原発ゼロという考えには賛同しかねますが、ただ、現実的には、原発という「切り札」を失ってしまったわが国は、今、エネルギー政策の岐路に立たされているといえましょう。
終わりに
石油もガスも出ないわが国にとってのエネルギー政策の根幹とは、一にも二にも、まず、エネルギーの安定供給をどう確保するかです。
エネルギーの供給不足は、単なる国民生活の経済的混乱だけでなく、国家の存亡・国民の生命に関わる事態に直結しかねないことは、歴史が証明しています。
一般的に、わが国のエネルギー政策は、1970年代が石油危機への対応(Energy Security)、80年代が規制制度改革の推進(Economic Efficiency)、90年代が温暖化対策への対応(Environment)と、それぞれの年代ごとに重視される観点が増えていったといわれ、頭文字を取って“3E”などと称されてきました。
2000年代になって、国家資本主義・新重商主義などといわれるトレンドが世界を覆う中で、新たな資源ナショナリズムが台頭し、資源確保の強化競争(狂騒?)が顕在化しましたが、原発事故以降の2010年代は、とにかく安全性(Safety)が重視され、最近では、“3E+S”などとよくいわれています。
ただ、原点というものは何事においても大切です。エネルギー政策に関しては、安定供給ということを第一義に置くべきであり、弾力的に対応できるよう、いろいろな可能性を残しておく必要があります。
(写真:iStock.com/Darryl Peroni)