球児プロデューサー7人目(後編)
甲子園のサイン盗みをめぐる攻防。勝負に勝つのは人格者か悪人か
2016/3/3
誰より指揮官自身が驚かされた、選手の行動だった。
チャンスでバッターボックスに立った自軍の選手がキャッチャーフライでアウトになったその刹那(せつな)、すぐにはベンチに下がらず相手のキャッチャーが脱ぎ捨てたマスクを拾って、敵軍捕手に渡してベンチに戻ってきたのだ。
悪より善、生意気より素直
勝負の世界では「相手を蹴落とすくらいの気持ちで戦え」という精神がある。勝負に負けたときには悔しさを表すのが当たり前の感情で、この打者のような行動は勝負の世界からすれば、勝利に対する姿勢が淡白に映る。
だが前橋育英の指揮官・荒井直樹は、そうした人としてとるべき大事な行為と勝利への執念を切り離すべきだと考えている。
「これは2013年に甲子園で優勝したときの予選であったことなのですが、マスクを拾った楠(裕貴)という選手はこの夏、打てなくて苦しんでいました。『迷惑をかけた』と本人は言ってきたんですけど、僕は『その行為がすごく大事なことだよ』と話しました。『勝負する世界の人は生意気くらいのほうがいい』『性格が悪いくらいのほうが結果を出す』ということをよく言いますよね。僕はその言葉にすごく違和感があるんです」
「都市伝説のようなものなのではないでしょうか。性格が悪いほうがいいというけど、では、どれほど悪い方がいいのか? どれくらい生意気がいいのか? そういうことを言う人はいないわけじゃないですか。僕は性格が悪いより善いほうがいいし、生意気であるより素直であることのほうがよっぽどいいと思います」
生意気であることや性格が悪い人間では、世間からは相手にされない。「人に喜ばれることをする。素直さを持っている。素直さを持ちながら、頑固な部分があるとか。そういう人間であることのほうが社会では大事」という信念のもと、荒井は指導に当たっている。
山本昌が長く活躍できた心構え
指導する中で例として挙げるのが、日大藤沢高校時代の1学年後輩・山本昌広投手についてだ。
山本昌は昨年までプロ野球で32年間プレーした、中日ドラゴンズのピッチャーだ。現役通算219勝を挙げ、最多勝やその年の最高の投手に贈られる「沢村賞」などのタイトルを獲得。最年長投手の数々の記録を塗り替えている。
「昌は本当に人格に優れて、いいヤツでね、マスコミの方からもたくさんのエピソードをうかがいます。試合後に、プロ野球選手の多くが取材で待っている記者を素通りしていく中、昌だけは必ず対応してくれるのだと。それも立ったままで取材を受ける。彼が長くプロで活躍してくれたおかげで、社会で生きていくためには人格に優れることが大事だと証明してくれている」
山本昌は現役中、どんなときであってもグラウンドに唾を吐いたことがない。その行為が野球に対する裏切りだと自身で感じていたからだ。また「練習中にホームベースを安易に踏むことはしない」「ごみを見つけたら必ず拾う」など、自分の中の決まりごとを常に実行してきた。「神頼みという言葉がありますけど、普段からきっちりしていないと神頼みは実現しない」と常々言っていたものだ。
誰にでも誠意を持つべき理由
どの立場にあっても、行動や態度を変えない。そういう心のよりどころが人間的に大きくし、成長を促していく。荒井はそうして選手として大成した後輩の生きざまを、自身の指導に生かしている。
「学校生活で厳しい先生にはきっちりとした態度をして、そうじゃない先生には適当にやる。そんな生徒がいますよね。『誰に対しても誠意をもってやることが大事だ』と選手たちには話しています。われわれは日常を生きていく中で、人にやってもらうことのほうが圧倒的に多い。自分一人でできることは限られているわけです」
「だから自分ができることに対しては、相手が誰であっても誠意をもって行動していくべきなんです。高校時代にホームランを100本打っても、社会に出れば関係のないこと。社会に出て必要とされる人間になるためには、普段からの態度や行動が大事になってくるんです」
ミスには寛容、勝利には執着
とはいえ荒井は、人間的な要素だけでチームを強くしてきたわけではない。前編では凡事徹底など野球以外の活動の大事さを伝えたが、だからといって勝利への意欲がないわけではない。「勝利の執念に関して僕はうるさい指導者だ」と荒井は言う。
「先日、二遊間にゴロが飛んでセンター前に抜けて、センターがトンネルをしました。そのときはショートに注意しました。最後まで打球を追わなかったからです。『お前が執念を見せて、飛びついてでもボールを捕っていたら、センターはトンネルしていないんだぞ』と叱りました」
選手のミスには寛容だが、しかし勝利への執念を出すことにはこだわる。ただの美徳としてだけで野球以外の活動に従事しているわけではないのだ。
甲子園でのサイン伝達防止作戦
そんな荒井が「勝利の執念」をみせた場面が2013年夏の全国制覇の中でもあった。これまで多くの学校がやってこなかった戦略を甲子園の大舞台で見せたのだ。
それはサイン伝達の防止作戦だ。
昨今の高校野球は勝利至上主義の弊害が影響しているからか、塁に出たランナーやプレーに関わっていない選手が相手バッテリーのサインを盗み見て、打者に伝達する違反行為をやっている。サイン伝達は野球界において禁止されているのだが、審判にわかるようなあからさまな行為でない限り、問われることは少ない。
甲子園大会を見ていると手に取るようにわかるが、先に挙げたように、塁に出たランナーが打者に向けて暗号を送っている。
その手法はさまざまだ。
「(セカンド)ランナーが地面を掘ったら変化球」
「ランナーが腰に手をあてたらストレート、顔の場合は変化球」
「ランナーが右足を立てたらインコース、左足ならアウトコース」
「ランナーがセカンドベースを見たら変化球、サードベースを見たらストレート」
「セカンドランナーがリードする際、足のステップをクロスさせたら……」
また、ある学校はチームに付いているボールボーイ(予備球を審判に渡すなどの役割)を使うケースもある。あるいはランナーコーチの声の掛け方や、ネクストバッターが打席の選手の呼び方を変えてコースを伝達するという手法をとっているとも聞く。
そんな折に、荒井はサイン伝達を防ぐための策を講じたのだ。
サインを盗まれるほうが悪い
セカンドにランナーがいる際、前橋育英は遊撃手をセカンドランナーの前に立たせたのだ。当然、守備への対応は遅れるが、それをいとわず、セカンドランナーが暗号を送る以前にサインを見えないように防いだ。
セカンドランナーの前に遊撃手が立ったそのシーンは、高校野球史における衝撃的な場面といってもよかった。
荒井は言う。
「サイン伝達に関しては自分たちはやりませんが、盗まれるほうが悪いと考えています。だから、試合で勝つためにはやらなければいけないこととして対策を考えました。それでショートにランナーの前に立つように指示を出しました。試合を進めていくと審判から『走塁妨害だ』とも言われたのですが、そこでも引き下がらずに意見を言いました」
人格者であることをチームとして徹底しながらも、勝負においては隙を与えない。それが前橋育英の戦いでもあったのだ。
引退した後に本当の姿が見える
もっとも人格者であることは、荒井が指導の中で譲れない部分だ。
「いつも僕が思っているのは、選手たちが高校野球を引退した8月以降に本当の姿が見えるということです。野球部にいるときは見せかけなところもあるので、取り組んできたことが本物になったかどうかは引退した後にわかるものだと考えています」
「夏の優勝メンバーは、その後も変わりませんでした。先日、あの世代の子たちが成人したので一緒に飲みに行きました。キャッチャーフライを打ってマスクを拾った楠もいて、変わらずにいい表情をしていました。そういう姿を見られるのは指導者としてうれしいです」
あの夏以降、前橋育英の選手たちは高校野球を引退後も、それまでの態度や行動と変わらないという。2013年夏に全国制覇を果たしたチームが一つの目安になり、今は伝統であるかのようにチームに息づいている。
それは荒井が積み重ねてきた、今の前橋育英野球部の中に存在する空気なのだろう。
その場の空気をいかにつくるか
荒井は自身に確かめるように言葉を紡いだ。
「鍵山秀三郎さんが言っておられたんですけど、会社の就業規則ってほとんどの人は読まないじゃないですか。会社のルールや決まりなんて誰も知らない。でも、社風はありますよね。規則にはないのに、その場には流れている空気がある。それをどのようにつくるかが大事なんじゃないかなと思います」
取材日は積雪の後だったため、練習風景の多くを見ることはできなかった。だが、所狭しと練習ができる場所を探して取り組む選手の姿を見ながら、荒井が言わんとしている空気を感じることはできた。
雪景色一面のグラウンドのように、彼らの心は白く澄み渡っていた。(文中敬称略)