欧州初の日本人監督への道(前編)
藤田俊哉、安住しないエリート「日本が世界一なら満足した」
2016/2/11
藤田俊哉は、サッカー界のエリート中のエリートだ。
サッカーをはじめた小学校の頃から、すべてのカテゴリで全国制覇を成し遂げてきた。プロ入り後も、華麗なサッカーで観客を魅了したジュビロ磐田の中心選手として、数々のタイトル獲得に貢献する。
個人としても、2001年にJリーグの年間MVPを受賞し、2007年にはMFとして初めて同リーグ通算100得点を達成。日本代表としても、長きにわたって活躍してきた。
圧倒的な実績とともに選手会長を務めた経験もある彼の前には、2012年の現役引退後にさまざまなセカンドキャリアの選択肢があったはずだ。ところが、指導者や解説者など、国内で引く手あまたの状況が予想された中、彼が選んだのは海外での指導者の道だった。
指導者として日本を経由することなく、海外に向かった理由はいかなるものか。現在、オランダ2部リーグのVVVフェンロでアシスタントコーチを務める藤田に、UEFAチャンピオンズリーグ放映権とスポンサー権利セールスのアジア・パシフィック&中東・北アフリカ地区統括責任者を務める岡部恭英が話を聞いた。
知らない世界を見たかった
岡部:日本代表として活躍し、Jリーグでも屈指のMFだった藤田さんは現在、ヨーロッパのプロリーグで日本人として初の監督を目指されています。多くの選手は引退後に日本で指導者や解説者として活動していますが、なぜJリーグを経由することなく、ヨーロッパで指導者のキャリアを始めたのでしょうか。
藤田:実は、説明できるほどのロジックがあって動いているわけではありません。「知らない世界を見てみたい」「思ったことをやりたい」ということに尽きます。
たとえば、「Jリーガーになりたい」とトライして実際になったとしても、世界を見渡せばJリーガーよりもはるかにレベルの高い選手たちがいることがわかります。僕自身、そうなったときに「高いレベルを見てみたい」と思い、現役時代も世界を目指していました。
もちろん、能力や年齢を含めて自分に足りないものがあれば、海外に行くことはできません。僕の現役当時は、日本からの海外移籍が今ほどにオープンにされていませんでした。日本でしっかり実績を残してから移籍するべきという論調もあり、移籍のハードルは高かったですね。
岡部:現役時代に多くのハードルを乗り越えて、2003年にオランダのユトレヒトへの移籍を果たしましたね。
藤田:すべての条件をクリアしたら、もう32歳になっていました。しかし、やはり知らない世界を見たかったことで、移籍を決断しました。海外で指導者のキャリアを始めたことについても、同じ精神と言えます。
良いか悪いか、無謀かどうかはやってみないとわからない。周囲に迷惑をかけないようにして、自分の人生でやりたいことをやるということです。ただ、実際には周囲に迷惑をかけていることも多いと思いますから、われながら自分勝手ということです。
岡部:なるほど。
藤田:やりたいことをやり、高いレベルがあるならばそれを感じたい。そして、そこに身を投じてみて、自分がどのような行動をとるのかを見てみたい。
自分はどんなときに弱音を吐くのか、あるいはそのときに自分でも思いもよらない“藤田俊哉”が出てくるかもしれない。だから、そういう状況に身を置くことが好きなんです。
日本が世界一なら満足できた
岡部:藤田さんは小学校から大学まで、常に全国制覇を成し遂げてきました。プロとしても、ジュビロ磐田でJリーグ優勝を果たし、アジア王者に輝き、日本代表としても活躍しました。達成していないことは何もなさそうですが、それでも海外でプレーしたいという思いがあったのでしょうか。
藤田:日本が世界一だったとしたら満足できたと思います。しかし、あるときに「自分はなんてちっぽけな世界で生きているんだ」と感じました。
当然、静岡県で優勝したとき、全国制覇したとき、アジアで1位となったときも、目標を達成したことでうれしい気持ちはありました。ところが、自分がどのような世界で生きているのかが成長するにつれてわかっていき、どんどん自分の欲求が満たされなくなるのです。
海外に違う世界があるのにもかかわらず、国内だけで満足することは自分自身として納得できませんでした。世界にはより高いレベルでプレーしている選手たちがいるのなら、それを知らないままでは寂しかったということです。
岡部:日本のあらゆるタイトルを獲得した、藤田さんならではの考えかもしれませんね。
振り返るより先のことを考える
藤田:僕は現役時代から後ろを見ないんです。
岡部:どういうことですか。
藤田:「あのときの試合」「あのときのゴール」と、自分から振り返ることはほとんどありません。誰かに質問されたときに、初めて思い返します。ですからサッカー仲間には記憶力が悪いと見られています(笑)。
岡部:忘れっぽいと思われている可能性があるわけですね。
藤田:確かにそれはあります。しかし、自分としては振り返る時間よりも、先のことを考えている時間が好きなんです。
立ち止まって「ああして、こうして」と考えてすべてを整えてから進むのではなく、「やりたい。行ってみよう」と走り出し、「ちょっと飛ばし過ぎたかな」と思いながらも、何とかしてかたちを整えていく。走りながら考えていき、最後は目標を達成したいというのが僕のスタイルでもあります。
岡部:ジュビロ磐田時代のチームメートである名波浩さんが、面白いたとえとして「藤田俊哉がトロなら、俺はワサビ」と語ったことがありました。日本屈指のプレーメーカーだった名波さんにそこまで言わしめる藤田さんですが、ヨーロッパでのプレーはいかがでしたか。
藤田:ヨーロッパでは、何一つとして達成できませんでした。
岡部:詳しく教えてください。
藤田:たとえば、日本でプレーしていたようにタイトルを獲得することはできなかったですし、所属していたのもオランダのビッククラブでもなく、中堅クラブのユトレヒトでした。
バルセロナでレギュラーをつかみ、中心選手としてプレーしていたら、もしかしたら「やり遂げた」という実感があったかもしれません。
選手の実績が生きた瞬間
岡部:現在はVVVフェンロでコーチを務められています。オランダ人はヨーロッパの中でも合理主義者として知られ、非常に強い自己主張もしてきますが、藤田さんは指導者として何か感じたことはありますか。
藤田:「プレーヤーの実績が生きるときもあるんだな!」と実感しました。日本での実績や代表選手だったこともそうですが、選手からすれば国も大陸も違うので、日本に対するイメージはほとんどありません。
そこで何が一番効いたかといえば、最初にマウリス・スタイン監督が「彼はプロ選手として500試合以上、日本代表としても24試合に出場した。オランダでもユトレヒトでプレーした」と紹介してくれたことです。ユトレヒトはオランダの中では中堅ですが、フェンロは今2部リーグなので、実績として選手たちの上に位置するということです。
やはりヒエラルキーはありますから、監督が「彼にはこういう実績がある」と最初に紹介してくれたので、そこから選手は必要以上に踏み込めなくなるわけです。僕自身も、それははっきりと感じましたね。とは言っても、小さい話ですけどね。
岡部:いきなりアジア人が飛び込んで指導するわけですから、それはありがたいと思います。
藤田:オランダではどんな選手でも、「アジア人に何を教わるんだ」という感覚を持っています。だからこそ、監督はことあるごとに僕を立ててくれるので、「上手いな」と感じことも多い。ですから、その期待に応えたいと強く思っています。
無駄な経験は一つもない
岡部:32歳で海外挑戦をすることは余りないことでしたが、藤田さんにとって移籍は無駄ではなかったわけですね。
藤田:どこで何の経験が生きるかわかりません。結局、無駄な経験なんて一つもないと考えています。
岡部:ちなみに、普段の指導はオランダ語でやっているのでしょうか。
藤田:英語で指示しています。オランダ語でできれば最も良いですが、つたないオランダ語でたどたどしく指示するのであれば、英語のほうがまだ瞬発力もあり、はっきり伝わります。
指導者にとって、選手から自信がないように見られるのが一番良くないと考えています。それにオランダ人は非常に自己主張が強いですから、中途半端な態度だと選手になめられてしまいますからね。
岡部:なるほど。オランダで指導者としてのキャリアを始めたこともあり、日本との対比は難しいでしょうか。
藤田:日本でのコーチ経験もないままオランダに行ったので、両国の対比はできません。
しかし、そのこと自体はいいことだと思います。互いに長所と短所があり、「オランダは日本と違ってこういうやり方をする」と比べるよりも、刺激を与えあうほうがサッカー全体としての生産性も上がるのではないでしょうか。
ただ、監督はモチベータ―の要素を持っていないと、チームを生き物として扱っていけないと学びました。ベンチで見ていると、ゴールが決まって喜んでいる一方で、試合に出られずに寂しがっている選手もいるわけです。
僕自身もコーチとして、ゴールを喜んだ後にベンチに座ろうとすると、選手によって温度差があることに気づくときがあったりします。
岡部:試合に出ていない選手のモチベーションも考えないといけないということですね。
藤田:監督自身が情熱を見せることは大事ですが、同時に、試合に出場しない選手のマネジメントも当たり前にやるべきこと。
もしも全部で23選手を抱えているのならば、常に23選手に目を配ることは当然。そこから下部組織の選手と入れ替える可能性もありますから、ユースチームにも気をつかわないといけません。
実際に現場に立つようになって、監督が考えることは無数にあり、どれほど大変なのかイメージがつくようになりました。もちろん、だからこそ面白いということもあると思います。
道を切り開いてきたパイオニア
岡部:道を切り開いていくということでは、昨年12月に行われたJリーグアウォーズでのエピソードもあります。JリーグのシーズンMVPやベストイレブンが発表されるイベントで、僕も出席していましたが、サッカー界の重鎮に次から次へと自らコミュニケーションを取っているのが藤田さんでした。
現役選手やOBで、そういうことをやっている人はほとんどいなかったので目立ちましたね。それも、日本サッカー協会の川淵三郎最高顧問や小倉純二名誉会長、田嶋幸三副会長のところだけではなく、FIFA(国際サッカー連盟)の会長選に立候補しているUEFA(欧州サッカー連盟)のジャンニ・インファンティーノ事務総長にもあいさつしていたところを見て、ビックリしましたよ。
藤田:知らなかったんですけどね(笑)。無知は怖いです。
岡部:川淵さんや小倉さん、田嶋さんにコミュニケーションを取りにいくことも、ほかの選手やOBはほとんどやっていませんでしたけど、藤田さんはしっかりとあいさつしていました。道を切り開いてきた一端が垣間見えましたよ。
ヨーロッパのプロリーグで監督になる挑戦は、日本人どころか、アジア人としても初めてのことです。藤田さんはまさしくパイオニアと言えると思います。
藤田:僕自身はパイオニアでもなんでもないです。実際にパイオニアと言われた方々は、自分自身をそう思ってやってきたわけでもないと思います。
自分のやりたい道を突き進んだ結果、誰かがパイオニアと呼ぶわけですから。それにお世話になった方や先輩にあいさつに行くのは特別なことではないですよね。
ですから、今後も僕なりのスタンスは変えずにやって行きたいです。これからも良いこともつらいこともあると思いますけどね。
(構成:小谷紘友、写真:福田俊介、アフロスポーツ)
*続きは来週火曜日に掲載します。