名波浩監督インタビュー(第1回)
若き指揮官・名波浩は弱体化した名門をいかに再生したか
2016/1/18
Jリーグにさんぜんと輝く黄金時代を築き、タイトル数だけではなくそのスタイルにおいてこそ、圧倒的な存在感を示してきたジュビロ磐田は、長く断崖絶壁に立ってきた。
2012年は年間12位に沈み、2013年は17位とついにJ2に降格。美しいサッカーに魅了されたファンの足は、満員1万6000人のサッカー専用スタジアムからみるみる遠のいていった。
地域とクラブ、選手とクラブ、あれほど強固に見えた組織のあらゆる箇所にヒビが生じ硬直する中、2014年秋、残り試合での昇格の望みをかけて、名門の切り札・名波浩(43)が再生を託され監督に就任した。
監督に選択の余地などなかっただろう。どん底で「火中の栗」を拾ったかに見えた監督、選手、クラブにはしかしさらなる「底」が待っていた。
年間4位で臨んだ昨年の昇格プレーオフで、アディショナルタイムにCKからゴールキーパー山岸範宏に決められ辛酸をなめる。
あの苦い体験から1年後の2015年11月23日、監督とチームはまたもロスタイムの修羅場に立たされていた。まるで、解けなかった「テスト」の答えを1年がかりで求められる試練のように。
挫折で得た「奇跡を呼ぶ力」
自動昇格がかかるシーズン2位でのゴールを目指して大分と対戦し、終了間際に同点にされる。しかし1年前とは違い、選手は誰一人ピッチにひれ伏さなかった。「時間はまだある」と頭を上げ、互いを鼓舞する。
山形戦で、「ただ呆然として何もできなかった」と、痛恨の采配を胸に刻印した監督もすぐさま冷静に、残る交代カードを切ろうと動いた。直後、小林祐希がゴールを奪い返し、大分を突き離し昇格を決めた。
J1復帰と同時に取り戻したのは自信である。
「山形には奇跡を呼ぶ力があって、自分たちにはなかったのだと思う」と話していた監督の言葉通りなら、磐田は1年で「奇跡を起こせる」自信を取り戻したクラブに変身したということになる。
パスと同じく、人と人をつないだ
現役時代、監督の左足からピッチに描かれるパスにはいつも、言葉より強く響くメッセージが添えられているようだった。
「絶対に諦めるな」
「頼むぞ」
スパイクとユニホームは脱ぎ、立つ場所こそ変わったが、それでも、ピッチの中盤であらゆる地点にパスを供給しながら、チームを同じ方向にリードしていった仕事は、何一つ変わっていなかったのかもしれない。
滞っていた選手と監督のコミュ二ケーション、スタッフ間の意思の疎通、選手とクラブの連携、選手とサポーター、クラブの連帯。どれも監督の視野を経由し供給された「パス」によって息を吹き返し、名門クラブは3年ぶりにJ1の舞台に復帰する。
監督経験どころか、コーチ経験もなかった若き監督は、弱体化したクラブの再生にどう着手したのだろう。
まず組織の現実を分析し、選手たちをじっくり観察し、そしてアクションを起こす。その手法は、「キャリアがない」と批評される新人監督とは違った。左足で戦い抜いたプレー同様、力強い個性と自信にさえ満ちていたように映る。
名波浩にとって再生のカギは、クラブが掲げたスローガン(つなぐ)でもあり、フットボーラーとして、監督として、人として貫く信念「人と人をつなぐ努力」にある。
今オフ、「1年間、監督としての自分に問い続けた通信簿」(監督)の中身について聞いた。
自分の仕事を通信簿に
──一昨年の就任時、もし監督が失敗したら、もう後がないほど名門クラブは追い込まれていたでしょう。愛するクラブへの復帰と同時に、新人監督が「最後の砦(とりで)」になったプレッシャーを前提とした仕事だったのではありませんか。
名波:もちろんそういう状況でしょう。けれども重いプレッシャーを背負って厳しい仕事をするのはこの世界、もう当たり前過ぎる前提だから。
自分の現役時代だって「負ければ全部オレの責任だ」そう覚悟してピッチに立っていただろう、と。でも今回はそのプレッシャーやストレスを逃がしてくれるスタッフがいて、彼らにこそ相当重い仕事を背負わせてしまったなと思う。イエスマンではなく、いろいろな助言を与えくれ、本当に強固なサポートをもらった。
クラブにとって厳しい状況ではあったけれど、一人で乗り越えようとは思っていなかったし、彼らには頭が上がらない。その延長戦上での仕事だから、自分でつけていた通信簿にはあえてプレッシャーに克つ、とは入れなかった。
──通信簿? ご自分で?
通信簿は、自分へのジャッジ。試合中の判断とか交代、トレーニングメニューが次節にどう反映されたかとか、されなかったとか。反対に、前節の課題を今週はとてもよく克服できた、といった、本当に多くの項目が通信簿の中身だった。冷静に、自分の仕事を判定する。それは欠かさなかった。
選手たちに隠した入院の日々
──チームの状態を判断するのと同時に、リーダーとしての仕事もジャッジしていた。
そう。技術的、戦術的な面もあるし、あとは選手の組み合わせも、自分がちゃんと見極められたのかどうか。ケガで離脱している選手がいるから組み直すといった要因だけではなくて、この選手とこの選手のコンビネーションを最大限発揮するための配置も含めて、どう判断ができたかも重要。
──現役時代は、中盤で俯瞰するような広い視野で試合を見ていた監督らしい習慣です。ご自分の通信簿は何点くらいで?
どうだろう。3.5点に届いた項目は少ないと思う。
──厳しい自己採点です。
まだまだできた部分が多い。大前提として、入院を5回もしているのは大きな減点。選手を動揺させたくなかったし、負の要因なんて一切外には言わず、もちろんジュビロの番記者さんたちにも何も知らせなかった。
手首に名前入りの入院リストバンドを巻いたまま、1週間に4回、外出許可で指揮を執った。誰にも察知されないよう、そのバーコード入りのバンドを隠すのにもう必死で。
──よく隠し通せましたね。
選手に勝ち切れ、と言い続けたのだから不安材料は与えたくなかった。実は後厄の自分も含めてチームに本厄もそろっていて、後で厄払いに行ったスタッフが聞いたら、どうもオレ1人が皆の分を背負う役回りだったらしい。昇格したから話せる笑い話です。
(写真:星野裕司)
*続きは明日掲載します。