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東京ヴェルディ・羽生英之インタビュー(第1回)

ヴェルディを経営破綻から救った社長は元Jリーグ事務局長

2015/12/9

2010年、Jリーグ創生期に栄華を極めた名門クラブが、消滅の危機に直面した。

前年に親会社である読売グループが撤退した東京ヴェルディが、経営難に陥ったことで、リーグ戦続行が困難となったのだ。

Jリーグは残りのシーズンをまっとうするために、一クラブの経営に史上初めて直接介入。リーグが資金を投入することで、危機を乗り切ることになった。

前代未聞の事態を迎えた当時、Jリーグの事務局長とヴェルディの社長を兼務し、クラブ存続に奔走したのが羽生英之だ。

初めてJ2クラブを取り上げる今回は、スポーツライターの金子達仁がヴェルディ再建の道のりを羽生社長に聞いた。

羽生英之(はにゅう・ひでゆき) 1964年生まれ。JR東日本に入社後、東日本JR古河フットボールクラブ(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)へ出向。その後、Jリーグに転じて、2005年から事務局長を務める。2010年に親会社の撤退で経営難に陥っていた東京ヴェルディの再建のため、事務局長との兼務で同クラブの社長に就任。クラブの存続に奔走した。同年10月にJリーグ事務局長の職を辞し、兼務を解消。現在は東京Vの社長に専念している

羽生英之(はにゅう・ひでゆき)
1964年生まれ。JR東日本に入社後、東日本JR古河フットボールクラブ(現ジェフユナイテッド市原・千葉)へ出向。その後、Jリーグに転じて、2005年から事務局長を務める。2010年に親会社の撤退で経営難に陥っていた東京ヴェルディの再建のため、事務局長との兼務で同クラブの社長に就任。クラブの存続に奔走した。同年10月にJリーグ事務局長の職を辞し、兼務を解消。現在は東京Vの社長に専念している

Jリーグの事務局長から社長に

金子:2010年にJリーグの事務局長からヴェルディの社長になられた経緯を聞かせてください。

羽生:2009年に日本テレビがヴェルディを手放して、2010年は新体制でスタートしました。ところが、新体制の経営がうまくいかず、4月末か5月の段階で資金がショートすることになりました。

すでにリーグ戦ははじまっていたので、その段階でヴェルディを退会させることはできません。そこから、Jリーグの子会社であるJリーグエンタープライズが株式を保有するかたちで、リーグが経営に直接関与することになりました。要するにクラブを「国有化」したかたちで、シーズンを乗り切ろうということです。

当時、誰を社長にするかという議論で、常務理事がヴェルディの社長を兼務するということになりかけました。ところが、常務理事がJリーグエンタープライズの社長を兼務していたことから、利益相反になるという問題が出てきた。それで、次の候補だった私が事務局長との兼務で引き受けることになりました。

債務超過をギリギリでクリア

羽生:当初は、経営をやっていただける方を探して、私はその後、事務局長の職に戻ろうと思っていました。しかし、クラブを引き取ってくれる方がなかなか現れない。

すると、その年の日本クラブユースサッカー選手権でヴェルディユースが優勝したんですね。ユースの選手たちを見ていると、自分のなかに「このクラブはつぶしてはいけない」という思いが芽生え始めました。

それが9月のことでしたが、当時のJリーグには債務超過ではJ1に昇格できないというルールがあった。その債務超過を解消するために、4億円近くを集めないといけない。当時はそのおカネを集めたうえで、経営を誰かに譲ろうと考えていました。

ただ、10月末までにおカネが必要となっていましたから、自分のツテで知り合いや友人に「ヴェルディを助けてくれ」と相談しました。すると、1億円を出していただいた方が2人ほどいて、ほかにも1000万円単位で皆さんに助けていただき、何とか債務超過をギリギリでクリア。J1に参加できる条件まで持っていくことができました。

恩師の言葉で社長を引き受ける

羽生:ただ、ご支援いただいた方々から、「お前がやるなら助けてやる」と言われていました。私自身、「自分がやるから助けてくれ」と言っていましたから、自分が引き受けるんだと腹が決まりました。

金子:ピンチヒッターのつもりが、そうではなくなったんですね。

羽生:それで、Jリーグを辞めて、2011年からヴェルディの社長になりました。当時は周りから、「Jリーグにはいつ帰るんですか」と言われていましたが、片道切符なんですよ。Jリーグに籍が残っているわけでも、「戻ってきてもいい」と言われているわけでもありません。

ただ、社長を引き受けるかどうか判断する際、日本サッカー協会の常務理事などを務められ、Jリーグ時代に大変お世話になった恩師である木之本興三さんが、常に言っていた言葉を思い出しました。

木之本さんは、「判断に迷ったときは、日本のサッカーのためになるのか、ならないのかという判断基準で考えろ」と、よく言われていて。そのときも自分で「ヴェルディをなくしていいのかどうか」と考えました。

伝統もネームバリューも、育成メソッドも持っている。しかも、首都である東京のクラブ。なくしていいわけがなかったので、「自分がやってクラブを残すのが日本のサッカーのため」と思って、社長を引き受けることにしました。

ピッチ上で羽生英之社長(右)と談笑するスポーツライターの金子達仁(左)

ピッチ上で羽生英之社長(右)と談笑するスポーツライターの金子達仁(左)

予想外に大きかったダメージ

金子:社長を引き受けられてみて、想定外のことはありましたか。

羽生:思った以上に、会社としてのダメージが大きかったです。うまくいっていないことを少し長く続けてしまったせいで、損なわれていた部分がありました。育成のメソッドがあると言いましたが、「選手が育っているようで育っていない」「いい選手がいるのに、なかなかトップで活躍する選手が出てこない」といったところです。

そういうジレンマを抱えていて、育成の選手を起用すれば2、3年で勝てるようになると踏んでいましたが、そうはいかなかった。それに、債務超過ギリギリでスタートしているので、資金面の余裕もありませんでした

金子:常に徳俵に足がかかっている状態ですね。

羽生:口元まで水に漬かっている状況でしたから、投資をしたいと思っても、余力もなかった。ただ、選手はそろっていて、少し頑張ればJ1に昇格できそうでした。J1に上がれば、さまざまな問題が解決すると思い、無理に選手を獲得し、高額年俸の選手を引き留めもしました。

どこで帳尻を合わせるかというと、大きな収入源があるわけではないですから若い選手を売らざるをえなかった。しかし、常にギリギリで上がれないという状況が3年ほど続いていて、このままでは疲弊していくという危機感も感じていました。

それで去年、サポーターとスポンサーの方々に対して、「飛び上がるために、1回しゃがませてください」とお願いをしました。「もう一度、アカデミー出身の選手で戦うところまで戻りたい」と。それが去年(2014年シーズン)で、最終順位は20位でしたね。

初めはおカネを集めるのが仕事

金子:就任当時と現在で、社長の仕事ということに変化は出てきていますか。

羽生:就任したときは、仕事の100%がおカネを集めることでした。

金子:100%ですか。

羽生:初めはおカネを集めること以外は、何もしていないですね。そこから、徐々にわれわれが持っている経営資源を見る時間ができてきた。投資できる額は本当に少ないですが、「ここにちょっとおカネや人材を投下しよう」ということを少しずつやり始めています。

莫大(ばくだい)なおカネをかけていませんから、劇的には変わりません。そのなかでも、少しずつ変わりつつあります。徐々に余裕も出てきて経営資源の再分配もでき、効率のよい収益構造になってきていると思います。だんだんとよくなってきているので、粘り強くやりたいと思います。

インタビューはグラウンドを見渡すことのできるクラブハウスで行われた

インタビューはグラウンドを見渡すことのできるクラブハウスで行われた

“外様社長”のやりやすさ

羽生:社長として、やりやすかった点もあります。誤解を恐れずに言うと、クラブに長い歴史があればあるほど、さまざまな考えを持ったOBの方がいます。ただ、私はこのクラブ出身ではないので、OBの皆さんから何かを言われたことはありません。なぜなら、彼らは私のことを知らないですから。そこはやりやすかったですね。

金子:それはネガティブな考え方をすると、「俺は、外様だから」という考えにもつながりかねないと思います。

羽生:おそらく、このクラブは私がいなかったら潰れていました。言いたことがあるのならば、経営が厳しかったときに、「誰か助けてくれましたか」と聞きたいですね。私は自分の力でやりましたから、「文句を言われる筋合いはない」という考えがどこかにあるかもしれません。

金子:そもそもそこまでチームを追い込むなよと。

羽生:本当ですよ。「どうして、外様の私のところに話が来るんだ」という話ですから。口を出す人々がいてもおかしくない状況ではありましたが、私のことを知らないので誰も何も言わなかったのだろうと思っています。

(構成:小谷紘友、写真:是枝右恭)

*「Jリーグ・ディスラプション」の第6弾となる羽生英之社長(東京ヴェルディ)インタビューは、水曜日から金曜日まで3日連続で掲載する予定です。