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スポーツポリティクス序論(第4回)

公園絡みの法律と概念がスタジアム・ビジネスを阻む

2015/11/16

「新国立競技場」の問題は国民的な関心事としてメディアが大きく取り上げ、結局は白紙に戻された。五輪のエンブレムといい、スポーツの側に「プロジェクトを進める能力」の稚拙さが露呈された格好だ(「白紙撤回」は2015年の流行語大賞の有力候補だろう)。

「プロジェクトを進める能力」とは、端的に言えばマネジメントのことである。受験英語で“manage to 〜”というのを「なんとか〜する」と習ったはずだ。

マネジメントとは、「組織が目的を達成する方法」のことである。ドラッカーも「マネジメントは成果から定義される」と明言している。方法は「目的/成果」から定義されるのだ。

Howでは根本的解決にならない

実はこのわかりきった常識が、現実にはなかなか機能しない。現代の病の一つが、「方法の自己目的化」という主客転倒の問題だ。問題解決にあたり、「どのように解決するか(=How)」から入ってしまうことが多いが、これはダメなのである。

問題の構造的な解決を図るには、「因果関係」を把握することから始めなければならない。「なぜ=Why」という原因を究明し、それを解消することが「解決」なのだ。眼前の現象に対応しても、それは現象対応にすぎず、原因の解消にはならないのだ。従って、同様の問題が再発するリスクは必ず残るのである。

ザハ・ハディド氏による新国立競技場の設計案は今年7月に白紙撤回された(提供:日本スポーツ振興センター/AP/アフロ)

ザハ・ハディド氏による新国立競技場の設計案は今年7月に白紙撤回された(提供:日本スポーツ振興センター/AP/アフロ)

目的が欠落し、カネの話ばかり

「新国立競技場」や「五輪のエンブレム」問題への対処は、この悪しき典型の観がある。新国立競技場で問題とされているのは、「予算管理」と「情報の透明性」および「ガバナンス」である。

この問題にフォーカスして議論され、再スタートもこれらの問題に対処することを主眼として進んでいる。ここにはやはり、「なぜ=Why」が欠落している。そのために、新国立競技場建設の本来の目的が視野から抜けてしまう。

予算管理は目的ではない

本来の目的は、「良いスタジアムの建設」のはずであり、「予算管理」や「組織管理」「情報管理」はその目的遂行のための「手段」にすぎないのだ。管理はコントロールであり、マネジメントではない。

欠落しているのは、「良いスタジアムとは何か?」という議論と定義である。これがないと、プロジェクトのゴール(=目的)を見失う(もうすでに見失いつつある?)。

「予算管理がうまくいくこと」は、「良いスタジアムを建設すること」の必要条件ではあるが、十分条件ではない。「十分条件」は「なぜ=Why」と問うことからしか明確にならないのだ。

不可欠なゴールとフレームの設定

かつてバルセロナFCの財政再建に成功し、その後航空会社にヘッドハントされ、さらにマンチェスター・シティーのCEOにヘッドハントされたフェラン・ソリアーノ氏と「トップ・マネジメント」について語り合ったことがある。

氏いわく、「トップの仕事はゴールを設定し、それを達成するためのフレーム(課題)を決め、各フレームに優秀な専門家を招き、その専門家が自分の能力を十分に発揮するようにバックアップし、各フレーム間の調整をして、全体最適を図ることだ」と語った。

明快かつ十分な説明ではないか。この点について、筆者は同意する。

新国立競技場問題は、ついに「なぜ=Why」が問われずに再スタートを切った。全体像を把握するトップのマネジメント能力を欠いたために、欠落した課題設定(=フレーム・セッティング)は今も手つかずのままだ。

スポーツに必要な共同幻想

スポーツが政治を必要とする一番の現実的な問題は、インフラ整備である。特に大型の社会体育施設であるスタジアムやアリーナは、純粋な経済行為としての成立が極めて困難だ。端的に言えば「元が取れない」のである。

となると、「公的な支援」が必要になる。それが可能なのは、スポーツが「公共的な存在として認識されている」からだ。公共的な存在は、すべて「認識問題」である。それは「共同幻想」なのだ。

従って、スポーツがその「共同幻想」を少しでも傷つける行為は許されない。巨人軍の選手が「野球賭博に関わった」行為は、それ故に許されないのである。

スポーツ界全体が「公共性という共同幻想」を維持発展する責任を担っている。この意識が希薄になると危険なのだ(スポーツに関わり始める初期段階で、「スポーツマンシップ」教育をしておく意義の一つもここにある)。

スタジアム建設と国交省の関係

ここで、「公的な資金」つまり税金を投入する「スポーツインフラ整備」の問題点の整理を以下で試みよう。

これまでスタジアムを建設する際の資金調達として、国の助成金は建設国債によるものが圧倒的に多かった。

なぜか。スポーツを管轄する文部科学省の助成金は半額だが、国交省の助成金は3分の2だからだ。

申請目的は「都市公園の整備費用」

ただし、その際の申請目的は「スタジアム建設」ではなく、「都市公園の整備費」である。スタジアムは「都市公園の付帯施設」扱いなのだ。

ここで最初の「目的」と「手段」の乖離が始まる。スタジアムの建設と運営は、「都市公園」の制約を受けるのである。

公園管理事務所からの嫌味

筆者がかつてトヨタカップのプロデューサーだった頃、毎年国立競技場の使用申請を代々木公園の管理事務所に提出していた。

その際、「サッカーは大勢の人が来るから困るんだよねえ」と嫌みを言われたことは一度や二度ではない。

公園整備の担当者の多くが、大学では「農学部造園科」の出身者である。彼らにとって、公園は「庭」であり、その庭を乱すスポーツ観戦者は、好ましからぬ輩としか映らないのである。

公園の概念がビジネスを阻んだ

日本のスタジアムの多くが、恒久施設としての「飲食施設」や「物販の店舗」を長い間備えられなかったのは、こういう理由による。

たとえば、Jリーグが開始された後に、福岡にJクラブのアビスパが生まれ、博多の森公園のスタジアムをホームにしたのだが、グッズの販売施設を設けることが許されなかったのも、この「都市公園に物販施設は不要」という壁だった。

ところが、これも実は大嘘であることが判明した。都市公園整備法にはどこにも「物販の店舗」を設けてはいけないなどという規定はない。長きにわたって官僚たち、管理者たちが「自粛」してきたのだ。

公園は訪れる人のためにあり、訪れる人たちが、「飲食」や「物販」を求めるなら、公園設置の目的と「飲食や物販の施設設置」は合致し、違法ではないのだ。

国交省が明かした真実

スポーツ興行にとって、「飲食」と「物販」は欠かせない。これが日本のスポーツ興行の足かせだったのだが、東北楽天は、この足かせを取り外すことに成功した。

理由は、「指定管理者制度」の開始である。平成17年に地方自治法の244条が改訂され、地方自治体の施設を民間企業が受託運営する道が開かれた(「指定管理者制度」については、次回に改めて触れることにしよう)。

楽天は早速、総務省管轄のこの制度を利用しようとした。すると、国交省から「現状の都市公園法の範囲でも、飲食・物販施設の整備は可能ですよ」と声がかかった。

これには日本中のスポーツ興行関係者はあぜんとしてのけぞったはずだ。長い間、「公園」の管理者たちから「公園に関係ない施設の設置は不可!」と「さももっともらしい理屈」を掲げられて虐げられてきたからだ。

法的根拠がない官僚の差配に注意

恣意(しい)的な解釈で権威を振りかざす官僚の体質は、こういうところに出てくる。法的な根拠のないものを「裁量」で差配したがるのだ。

「権力」好き、「管理」好きな官僚の悪いクセである。不合理な「管理」を感じたら、法的な根拠を求めるべきである。「公僕」の身であることを忘れて、権力をかさに着て威張る官僚など不要物の最たるものである。

重ねて言うが、「管理」は目的ではなく手段なのだ。目的整合的な管理をするのが、管理者の本来の使命ではないか(まだこういった手合いは、日本中の施設管理者にウヨウヨといる)。

*次回は11月20日(金)に掲載予定です。