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『日本共産党と中韓』著者 筆坂秀世氏インタビュー(前編)

日本共産党元幹部が説く、「イズム」に染まる危険性

2015/11/13
時代を切り取る新刊本をさまざまな角度から紹介する「Book Picks」。金曜日は、話題の新刊著者インタビューを、前後編に分けて掲載する。
今回取り上げる『日本共産党と中韓』は、日本共産党の幹部から保守派の論客へと大転換した著者が、かつて所属していた政党を軸に、歴史の真の姿に迫った一冊。インタビューでは、本書のテーマとなる歴史の話題はもちろん、思想的「転向」を図った理由から、SEALDsや国民連合政府構想に対する見解に至るまで、縦横無尽に聞いた。

若者が「主役」のマルクス思想

──本書では、筆坂さんが共産党に入党したきっかけについて「社会の役に立ちたい」と書かれていますが、当時はどんな思いがあったのですか。

筆坂:私は1967年、18歳で日本共産党に入党したのですが、当時はマルクス主義が流行していました。社会は進歩しているものであり、資本主義から社会主義への発展は必然であるという見方に、多くの若者が傾倒していた。

日本共産党の本などには、こう訴えられていました。「社会発展を実現する主役は君たち若者なんだ」と。

私は高校卒業後、三和銀行に就職しました。しかし高卒の社員は、出世することが見込めません。一生懸命会社に人生を捧げて、よくてどこかの支店長止まりです。

残り40年以上の会社人生を考えると、「俺はそろばんを弾いて人生が終わるのか」と感じ、すごく虚しかったんです。配属された支店に行くのも嫌でしょうがなく、会社行事も一度も参加しなかった。髪の毛を短く刈り込み、先輩にケンカを売ることもしょっちゅうでした。

だから、自分たちの世代のことを、「主役」と言ってくれるマルクス主義思想が、とても眩しく見えたんです。「そうか、自分にも生まれてきた意味があるんだ」と思い、社会の進歩を実現させようと、日本共産党に入党しました。

当時、共産党に入った人の多くが、私と同じような気持ちだったと思います。

ところで、よく誤解されるのですが、安保闘争や学生運動をしていた人たちと私たちは違います。

彼らはいわゆる、革マル派や中核派などの「新左翼」です。1970年前後は、東大闘争などの学生運動が盛んな時代で、通勤に使っていた山手線がしょっちゅう止まっていました。

実は彼らは、「反・日本共産党」なのです。なぜかと言えば、日本共産党は当時、すでに暴力革命の路線をやめていたから。それに対して彼らは「こんな共産党は共産党ではない。われわれこそが本当の共産主義者だ」と主張した。

一方の共産党も、彼らを「トロツキスト」と言って、偽物扱いしていた。いずれにせよ、両者はまったくの別物です。

私はいつも板挟み

──その後筆坂さんは、日本共産党内で出世し、No.4と言われる「政策委員長」の地位に就きます。しかし次第に、共産党が掲げる理想と現実の乖離に気づき始めたそうですが、何がきっかけでしたか。

いろいろあったのですが、後で述べるように一番は近現代史です。

その前にわかりやすい問題として、たとえば消費税へのスタンスです。共産党は消費税廃止を訴えていますから、ある選挙の前までずっと「消費税引き下げます」というスローガンを掲げていました。

けど私は疑問を持っていました。消費税引き下げはどう考えても無理で、ポスターを見た国民が「あ、共産党は消費税を引き下げてくれるんだ、票を入れよう」なんて思うわけがないと。

そこで、当時、党の議長だった不破(哲三)さんに相談して「増税は許しません」という文言に変更することにした。ただ、そのときにはもうすべて印刷してしまっていたので、選挙では足元がもつれてしまいました。

政策委員長として、選挙ポスターの制作に関わることは多かったのですが、ほかにも結構どうでもいいことに時間を費やされました。「『許しません』ではなく『許さない』がいい」とか「紺色ではなく茶色にすべき」とか、いろんな人がいろんなことを言って、案がまとまらない。

特に委員長の志位(和夫)さんがOKしても、その上にいる議長の不破さんが首を縦に振らないときは参りました。ポスターが刷り上がったタイミングで「筆さん、これはダメだよ」と、不破さんから電話がかかってくる。それで不破さんの言うようにポスターを直すと、今度は志位さんがへそを曲げてしまう。

私はいつも板挟みでしたね(笑)。「こんなことで100万票も票が変わるか」と、あほらしく思いながら。

筆坂秀世(ふでさか・ひでよ) 評論家 1948年、兵庫県生まれ。高校卒業後、三和銀行に入行。18歳で日本共産党に入党、25歳で銀行を退職し、専従活動家となる。国会議員秘書を経て参議院議員に当選。共産党ナンバー4の政策委員長を務めるとともに、党屈指の論客として活躍。2003年に議員辞職。05年に離党後、後、多数の著書出版や、テレビ出演などで活躍。主な著書に『日本共産党』(新潮新書)、『論戦力』(祥伝社新書)など。

筆坂秀世(ふでさか・ひでよ)
評論家
1948年、兵庫県生まれ。高校卒業後、三和銀行に入行。18歳で日本共産党に入党、25歳で銀行を退職し、専従活動家となる。国会議員秘書を経て参議院議員に当選。共産党ナンバー4の政策委員長を務めるとともに、党屈指の論客として活躍。2003年に議員辞職。2005年に離党後、多数の著書出版や、テレビ出演などで活躍。主な著書に『日本共産党』(新潮社)、『論戦力』(祥伝社)など

共産党のスローガンに意味はない

2014年4月には消費税が5%から8%になりましたが、そのときも共産党は「増税反対」と言っていたでしょう。「こんな増税をやれば大変なことになるぞ」と。

で、結局8%になってしまった。そうしたら次のスローガンはどうなったか。「大変なことになる」と言うなら「5%に戻せ」と言うのが筋ですが、掲げられたのは「再増税は許しません」でした。

──「もう8%は許した」ということですね。

だから、共産党のスローガンにはさほどの意味はないんです。共産党の言ってきた約束が守られた試しなんか一つもないじゃない。支持者はそんなことを理由に共産党に投票しているわけではありません。

自民党政権の下で消費税が8%、10%と上がっていく中「好き勝手やらせたくない」「どこかで一矢報いてもらいたい」という気持ちから、共産党に入れるわけです。小さな政党の政策は、一生懸命つくったところで、理想論にすぎないんです。

にもかかわらず、共産党は唯我独尊的な態度を崩さない。300議席を持っている与党に対し、たかだか10議席程度しか持たない共産党を一人前扱いしろとは到底無理な話です。私は政策委員長として、政策立案を担当していましたが、当時からこうしたことは薄々感じていました。

戦前は「暗黒時代」ではなかった

──タイトルに「左から右へ大転換」とあるように、もともと共産党の幹部だった筆坂さんが、保守派に転じたのはなぜですか。

最初に一つ言いたいのは、「イズム」とか「主義」への憧れについてです。

原理原則に基づく「イズム」は、ある意味では、人を惹きつける魅力があります。私自身は18歳で共産党に入りましたが、先にも話したように、当時は共産主義に希望を感じていた。

ただ、今考えれば、その年齢で一つの主義主張に凝り固まるのは間違いでした。

私の場合は、若いうちに一つの思想に染まってしまったために、ちょっと右側の主張を聞くだけで嫌悪感を抱くようになってしまいました。たとえば、「靖国参拝」というフレーズを聞くだけで「とんでもない」と顔をしかめるわけです。

でも18歳では、世の中のことなんて何もわからない。20歳前後は、いろんな思想、考え方を学ぶ時期なんです。そうしていくうちに、幅の広い人間ができあがっていく。靖国参拝する人はその人なりの信条があるわけですから。

私の場合は訳あって共産党を離党し、その後、改めて日本の歴史を勉強し直したことで、多くのことに気づかされました。

共産党は独自の歴史観を持っています。戦前の日本の体制は全部否定、明治維新は革命ではないといったもので、これ以外の歴史観を認めていません。

多くの共産党員は勤勉で、自民党などの議員よりも真面目なのですが、近現代史は入党と同時に学ばなくなるんです。だから、知識が更新されなくなる。

でも私は「本当にそうなのか」と思い、党を辞めてから、改めて歴史を勉強し直したわけです。

──その結果、何か発見はありましたか。

日本共産党が描くほど、戦前の社会は「暗黒時代」ではなかった。

共産党にとっては、治安維持法で弾圧され、非合法に置かれていた「暗黒時代」かもしれないけど、一般の人たちにとっては、別にそうでもなかった面もたくさんあります。経済も発展していましたし、街の治安や衛生も保たれていましたから。

戦争にしても、共産党は「日本が世界で一番悪い」と言いますが、植民地支配をしていたのは欧米列強も一緒です。

今でもそうですが、世界的に見れば、日本人は優しく、礼儀正しいと評価されています。だから、戦前の日本が、そこまで極悪の国家だったとは考えにくい。そうした素朴な疑問が、共産党に漬かっていると消えてしまっていたのです。

(聞き手:野村高文、構成:野村高文・林誠一郎、撮影:遠藤素子)

*SEALDsをはじめとする反安保法案デモ、共産党が掲げる「国民連合政府」などをテーマとした後編は、明日公開します。
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