横浜DeNAベイスターズ・管理栄養士 乙坂紀子(第1回)
教科書には書いていない。プロ野球の食事情
2015/10/8
歩きながら「潮の香りがしますね」と言ったら、「気のせいですよ」と爽やかかつ即座に、カメラマンの安川啓太さんに否定された。安川さんの屈託のない笑顔は才能だと思っている。
少しすると目の前に港が見えて、気のせいではないことがわかった。初めて訪れる場所へ行くときは、どこか落ち着かない。この日向かった先は、安針塚駅から歩いて10分ほどの距離にある場所、横浜DeNAベイスターズの総合練習場だ。練習場へ入ると、右は海上自衛隊の基地、左を見れば米軍の横須賀基地があり、何はなくとも悪いことができない気分にさせられる迫力がある。
一流の勝負メシで今回お世話になるのは、横浜DeNAベイスターズで管理栄養士・調理師として働いている乙坂紀子さんだ。チームのジャージを着て出迎えてくれた乙坂さんから醸し出される見た目の可愛らしさとは裏腹に、どこか落ち着いた空気感はさすがチームで働いて12年という年月による風格だろうか。
前回は、サッカーのクラブチームや日本代表等の栄養指導をされているタニタの小澤智子さんにお話をうかがったけれど、今回の乙坂さんはチーム内で栄養の管理をされている。より現場のリアルな声が聞けそうだ。
──管理栄養士と調理師って、具体的にどんな仕事をされているんですか。
乙坂:私がここに入社したのは12年前なんですけど、もともと栄養士がこの球団にはいなかったんです。外部の栄養士が選手に栄養指導をしていてすごくためになることを教えてくれていたのですが、結局現場でそれを実践することが難しいというところに問題があった。
そこで、寮の食事やチームの遠征先のホテルの食事などをベストなものにしていくことを第一の目的として、まずは栄養指導からではなく、厨房に入ってより良い環境をつくることに取り組みました。
──乙坂さんがご自身で調理するということですか。
そうですね。調理をメインでやっていきながら選手にとってベストな食事に変えていくのが第一のポイントだったんです。最初の3年くらいはずっと寮の厨房で、『とにかく美味しいものを』とか『どうやったら食べてくれるか』ということを考えていましたね。
外部から受ける栄養指導にリンクさせること。教科書に基づいたアスリートにとってベストな食事が、すべてがここの選手にマッチしているわけではないというズレをどうやって埋めていくのか。この2点が私にとって大きな仕事でした。
そこから徐々に寮の食事だけではなく、栄養指導もやっていくようになり、今は厨房に立つよりも選手とコミュニケーションをとりながら一人ひとりに合った食事のアドバイスをするとか、チームの食環境を良くしていくというのがメインの仕事になっています。
──教科書通りの食事と選手が実際に欲する食事との間で、どんなところがマッチしなかったのですか。
たとえばサッカーと野球って競技特性が全然違うと思うんですね。サッカーみたいに走り続ける競技は、試合前にたくさん食べると走れなくなるため、教科書通りの指導で良いと思うんですけど、プロ野球ってそれに当てはまらないケースがあって……。
一般的には、『試合が始まる2時間前には食事を終えておく』というのが試合前の食事の基本なんです。ですが、DeNAベイスターズでいうと、ビジターゲームの場合、試合が始まる30分とか1時間前から食事が始まるんですね。これには私もびっくりしました。
──え? そんな直前に食べるんですか。
そうなんです(笑)。「食べるタイミング」が教科書とマッチしないプロ野球の世界に対して、私が「食事はこのタイミングがいいので、バッティングをずらしてください」と口を出すなんてあり得ないじゃないですか。悩みましたね。それと、難しいのは1週間のうちに試合が1〜2日しかなければ食事をコントロールしやすいんですが、プロ野球って基本的には火曜日から日曜日まで週6日試合があるんですよね……。
役割・出番により、選手自身が選択できることが大事
──ほぼ毎日、試合をしているわけですね。
そうなんですよ。月曜が基本的にお休みなのですが、移動日も兼ねるので、たとえば日曜日に横浜スタジアムで試合をした後に次は甲子園ってなると、月曜日が移動日になるので休日といえども稼働、みたいな(笑)。
そんな環境で毎日試合時の食事を教科書通りにしたら、これは痩せていくだけだなって。それに、食事って楽しみのひとつじゃないですか。たとえば、「試合前は揚げ物が禁止で、生もの禁止、食物繊維の多いものはガスがたまりやすくなるから避けましょう」というのが基本。
でも、ほぼ毎日それらを全部抜いてしまうコントロールで本当に良いんだろうかって思って。人として『食事を楽しむ』ことが欠けていいのか、健康な人だし病気じゃないのにそこまでコントロールする必要がプロ野球にあるのかな、と疑問があって。
選手にも実際に聞いてみると、「揚げ物が食べたい! 試合前でも食べたいです!」という声があった。もちろん食べたくないという声もあるんですけど、じゃあ食べたい人は何でそう思うのかを聞いたら、ちゃんと理由があったんです。
野球の試合ってだいたい2時間半から3時間かかるんですよね。たとえば18時に試合開始だった場合、スタメンの選手たちは試合前に揚げ物を食べたくない派なんですよ。
でも、2時間半とか3時間経った後に代打や抑えのピッチャーで出場する選手は、あまり軽い食事だと出場時間にはおなかが空いて逆に集中力が切れてしまうから、腹持ちの良いものを食べておきたい、という声があった。
「なるほど~」と思いましたね。だから、普通だったら完全にカットするべきものを、あえて外さないようにしました。その中で選手自身が選択できるようにしておくことがポイントかなと思います。
──いくつかある料理から、選手が選択できるシステムになっているんですか。
そうですね。今、このチームではほぼすべてがバイキングで、寮生活の選手は夕食だけが定食のスタイルです。だから好きに選べる分、選ぶ力をつけないと、太ってしまったり、パフォーマンスをちゃんと発揮できなくなったりするので、しっかりと情報を提供して食べるものを選択できる環境をつくってあげることが大事だと思っています。
たんぱく質は意外に摂れている
──年間の試合数がとても多い中、特に気を付けていることはありますか。これを摂ったほうがいいよ、とか。
やはり試合前の食事は特に注意してもらって、十分にパフォーマンスを発揮できるように炭水化物をしっかり摂ってほしいですね。車で言うガソリンになるエネルギー源を摂ってもらうということ。
また、すごくプレッシャーやストレスを感じる競技なので体内のビタミンCをたくさん消費してしまうので、野菜や果物をしっかり摂って、けがを予防し、けがをしてもすぐ回復できるように準備しておくのは大事ですね。
よくアスリートといえばたんぱく質っていわれるんですが、たんぱく質って意外にみんな摂れているので、その強化よりも、ほかのマイナスの部分をちょっとプラスにしてあげるっていう作業のほうが大事かなって思います。
──まったく想像がつかないんですけど、野球選手ってたんぱく質をどのくらい摂っているものなんですか。
計算上でいうと、アスリートは一日に自分の体重(kg表記の体重)の数字の1.8〜2倍の量のたんぱく質量(g)が必要っていわれているんです。
たとえば、野球選手の平均体重はだいたい80kgなんですけど、80kgの人だと160gのたんぱく質を摂るとしっかり体がキープされて大きくなる。一日160gだと、一食で50〜60gですね。
*ここで乙坂さんが「一人前分のお肉は、これくらいの大きさじゃないですか」と言いながら、自分の片方の手の平を一枚の肉に見立てて前に出した。
──あ、わかりやすいです。手の平サイズですね!
そうです。手でおよそのたんぱく質量の目安になるんですよ。手の平サイズだと、約20gを摂れるんです。
──え? これで20gなんですか。
20gです。(手を小さく拳にしながら)このくらいの卵だったら5gとか。目安ですけど。
お豆腐もこの拳くらいのサイズじゃないですか。5gと5gを足して、肉を一枚食べて、魚を食べて、とかやっていくと、だいたい夕食は60gを超える量をみんな自然と食べているんですね。
──手の平3つ分ってことですよね。
食べてます、食べてます(笑)。
食事が肉に偏ると血がドロドロになりやすい
──結構な量に思えますが……。
牛乳、豆乳、豆腐といった食品や、実はご飯にもたんぱく質が含まれるので、意外としっかり食べられているんです。だからそこの部分を強化するっていうよりは、たとえば、肉ばかりに偏っていたら血がドロドロしてくるので、魚や豆腐を食べるなど、組み合わせについて指導しています。
──乙坂さんが指導されているのは主に若手の選手ですか。それともDeNAベイスターズの選手全員ですか。
以前は入団して3年間はカリキュラムを組んでしっかり指導をしていたのですが、今は1年目のルーキーの選手に対してプログラムを組んでセミナーを開いたり、個別のカウンセリングをしたりして指導するのがメインです。でも、2年目以降は放置かというと、そうではなく、実はトイレが栄養指導の場になっているんです(笑)」
──え? トイレが栄養指導の場ですか。
「トイレが」です(笑)。
何から何まで現場主体の環境で、管理栄養士としての知識をすり合わせるのがいかに難しいことか。取材をしながら強くそれを感じた。同時に、乙坂さんならではのアイデアがたくさん散りばめられていることも伝わってきた。
では、トイレが栄養指導の場とは一体どういうことだろうか。次回は乙坂さんのアイデア満載のユニークな指導法にさらに深く入り込んでみようと思う。
(文:加藤未央、写真:安川啓太)
*乙坂紀子さんのインタビュー第2回は、10月19日に掲載する予定です。