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創造を常とする人に必要なこと

メディアの変化に対応した21世紀型コンテンツ創造とは

2015/10/3

マスメディアからパーソナルメディアへ

20世紀はマスメディアの世紀と呼ばれています。19世紀末の新聞に始まり、ラジオ、TV、ネット(PC)と、よりマスに普及するメディアの存在が、「皆が同じメディア・コンテンツを消費する」という歴史上まれな時代を築き上げました。

メディアはツールでありながら、その影響力の大きさからナショナリズムを喚起するためにも用いられるようになり、世論誘導などが、議論の遡上(そじょう)にもあげられるようになった時代です。

グラフで見れば一目瞭然。1900年に週10時間もなかったメディア視聴は、1960年に30時間を越え、2000年には60時間、そして5年後の2020年には90時間にも及ぶと想定されています。特に、戦後50年でのTV普及の貢献度は大きく、メディア消費の8割を占める独占メディアとなりました。

特に日本においてはTV局の新規参入も抑えられていたため、「数千万人が同時に同じものを見る」という広告効果バラ色時代を築き上げ、広告市場の3割、2兆円を占める歴史上最大のメディアとなりました。

それが、今、成熟の時を迎えています。1960年代から急拡大、1980年代に落ち着いたその伸びは、PC、ワイヤレス(モバイル)、ゲームによって、今2段階目の爆発期にあります(実際のモバイル消費は図以上にすさまじく、米国では2015年Q2に日次のメディア別消費時間がTV168分に対してモバイル198分と、ついに逆転しています)。
 grp_151004_消費

下図は、米国ユーザーにおける1週間のデバイス別消費時間を分類したものです。TV、PC、モバイルの3大メディアはほぼ100%の普及率といってもよい数字です。

ただ市場は消費変化の後からついてくるものであり、まだ収益的な構造変化にまでは至っていません。2014年に米国全体で1800億ドル(22兆円)の広告市場ですが、その40%はいまだTVが占め、同レベルの視聴時間を有するPCは18%、モバイルは10%と、まだ安価な広告市場という状態です。

ただ、モバイルは2018年には全体の26%(580億ドル)、現在の3倍以上に成長することが予測されています。この「雑誌・新聞から大きくシェアを落とし、TV・PCも徐々にモバイルに地盤を奪われる」トレンドは、米国だけでなく日本も含めた全世界的な傾向です。
 grp_151004_使用時間

これが意味するところは、マスメディアからパーソナルメディアへの構造的転換です。モバイルのように個々が保有する端末によって、メディアの消費行動はどんどんパーソナルなものになります。

すなわち、「ユーザーがメディアに近づいて、同じものを同時間に見る」ということから「メディアがユーザーに近づいて、好きなものを好きな時間に見せる」という変化です。

AIから学ぶ、次世代への思考転換。「まずやってみて後から直す」

メディアの変化は、そのままコンテンツにも大きな影響を与えます。「視線の取り合い=可処分時間の取り合い」×「メディア消費時間の上昇=可処分時間の希少性の上昇」という状況の中で、視線の奪い合いは加速します。

こうした中、パーソナルメディアに符合し、この変化を最もうまく取り込んだコンテンツ産業がゲームでした。ここ40年間のゲーム産業創世の歴史を市場規模でたどってもらえると、PC、モバイルの普及をそのまま市場にうまくコンバートしてきた過程が見えます。

2000年ごろまで、アーケード+家庭用は200億ドル規模で落ち着いていました。その市場は、2005年ごろからPC、2010年ごろからモバイルの台頭によって、1000億ドル規模の市場に成長。そして、いまだに成長を続けています。家庭用も、遅れながらオンラインが主流になりつつあります。
 
バブル以降、コンテンツ産業はしばらく冬の時代を迎えていました。娯楽自体への消費行動が衰え、1996年にピークの80兆円を超えていた日本の余暇市場は、直近で60兆円近くまで萎んでいます。
 grp_151004_ゲーム別 (1)

そうしたダウントレンドの中、ゲーム業界はこの10年間、TVや映画、音楽、出版業界に比べて独走とも言える状態を保ってきました。ゲーム産業はなぜこうした変化と歩調を合わせることができたのでしょうか。その理由を、最近の人口知能(AI)の進化の中にも見つけることができます。

そもそも、人工知能は50年以上前から研究され続けてきたテーマで、何度も興っては廃れるというトレンドを経験しています。その絶対的なボトルネックは「人間があらかじめロボットのCPUに入れたルールの範囲でしか、最適な解を導けない」という制約でした。ところがこの数年起こっている人工知能の勃興トレンドは、それらとは一線を画しています。

いわゆる機械学習と呼ばれる、自動学習機能が実現しているのです。簡単に言うと「Aシミュレーションで導かれた事前の確率×B実際の測定・観測結果=C意思決定」と、Bで実際の観測結果を蓄積し、何度もフィードバックして自動学習しながらCの精度を徐々に上げていく、というものです。最初は不完全でも、どんどん完璧に近づくモデルです。

デジタル化、クラウド化の流れの中で、ビジネスモデルやコンテンツづくりもまさに同じプロセスをたどっています。

Uber(ウーバー)やAirbnb(エアビーアンドビー)などのソーシャルビジネスも、許認可事業の固い業界構造に切り込み、実際にAの仮説のみに基づいて事業を始めてしまいます(Aでビジネスモデルを決め、事業者のスクリーニングが弱い状態で希望者ベースで事業開始。Bでユーザー・事業者のフィードバックで「悪い」セグメントは自動排除するメカニズムを入れ、自動的にビジネスプロセスが改善していくかたちにしています)。

ユーザーの多様化、大規模化によって、事前設計と消費実態との乖離はますます大きくなるばかりです。そうした中、「わからないものはわからない。とりあえずやってみて、結果を見ながら最終的な結果を補正していこう」と考え方を変えるのはとても自然なことですよね。

ゲーム業界がそれをどう取り込んでいったかが、まさに前回語った「無料経済」「創造と販売の距離のゼロ化」「創造のサービス産業化」といった販売手法の変革だったのです。

スナック化するコンテンツ、創造フォーマットの変革

人がメディアに奪われる時間はどんどん大きくなる反面、コンテンツはどんどんコンパクトなものが好まれるようになってきています。

1日平均70分あった家庭用ゲームは平均7分×5回のモバイルゲームに時間を奪われ、平均3時間あったTV視聴は1回10分足らずの携帯・タブレットに奪われ、その中身も変わりました。

モバイル向け漫画アプリは1ページで2、3コマ×10ページ足らずで、雑誌漫画の半分程度の容量で表現することを求められます。お菓子のようにサクサクと軽い「コンテンツのスナック化」が起こっています。

最近、ユーチューブの人気コンテンツは映画や音楽、2、3分間のおもちゃなどの商品の使い方案内動画だったりします。うちの4歳児はプリキュアの商品案内動画に夢中で、TVそっちのけとなり、タブレットで延々と商品案内を眺めています。

家庭にもよりますが、友人宅ではタブレットを禁止してTVで教育チャンネルを見せることが「子どもへのペナルティ」になっているという話すら聞きました。

そんなものがコンテンツになるはずもない、というものが、スナック型のメディア視聴にあわせて、立派にコンテンツとして成り立つようになってきています。

この100年を振り返るとコンテンツのスナック化は不可逆な動きのように思えます。20万、30万字のハードカバーが5万、10万字の新書に時間を奪われ、それが3000字の雑誌記事に奪われ、そして2000字以下のウェブ記事に奪われ、出版市場も軽いほうに市場規模が推移していきました。

映像も2時間パッケージの映画から、45分+15分のCMパッケージのTVに奪われ、それが5分程度のユーチューブ動画に奪われ、果てはストリーミングベースとなり時間枠の概念すらなくなってきています。1時間のアルバムなんて必要なかったということが、1曲だけでもダウンロードすることができるiTunesにより証明されつつあります。

こうしたメディアの変化にもかかわらず、コンテンツ業界は基本的にいまだ「数千万人が同じものを見る」という大量生産メーカー型モノづくりを抜け出せずにいます。

創造をコアの価値とするコンテンツ業界にとって、創造のフォーマット自体が変えられてしまう変化は、非常にクリティカルなものです。われわれは過去100年、「ユーザーから近づいてくれるマスメディア」の守られた環境で、パッケージ化されたコンテンツを創ることに慣れ過ぎたのかもしれません。

メディアとコンテンツが隣り合わせであるように、メディア消費の変化によってコンテンツ消費の仕方や、創造の方法をそのフォーマットごとに変革することが、求められているのです。

同じところにとどまっているクリエイターは本物ではありません。創造を常とする人は、いつでも誰もやっていないところを探し続けないといけません。だからこそ、こうしたメディアの動きにも鋭敏にならなければならない、そう日々感じています。

*本連載は隔週土曜日に掲載予定です。