みなさんの常識は世界の非常識

みなさんの常識は、世界の非常識Vol.28

安保関連法成立から考える日本の民主主義

2015/10/2

安全保障関連法が自民、公明両党などの賛成多数で参議院で可決され、成立しました。各種世論調査では「この国会での成立を望まない」とする意見が多数で、また国会周辺を中心としたデモも多くの人を集め、地方にまで広がりを見せる中の成立でした。

ただし、安全保障に関する政策は自民党のマニフェストにも書かれており、その自民党が選挙で勝利したのだから、与党の方が民意なのだ、とする主張もあります。

今回はこの連載の最終回ということもあり、日本の民主主義の「常識」と「非常識」について、宮台真司さんに加え、ビデオジャーナリストで「ビデオニュース・ドットコム」代表の、神保哲生さんにもお聞きしていきます。

民主主義とは多数決よりも自治

宮台:まず言うべきは、安保法制の中身に賛成でも、決定手続きがおかしければ反対をする、というのが民主主義の本義であること。今回、僕も、そして多くの人たちもそう思っているように、民主主義の適正な手続きが踏まれていない。手続き踏襲に不備があります。

巷を見ると、愚かな政治学者を含めて、民主主義とは多数決だからそれでいいんだ、という輩が溢れています。しかし、政治思想の歴史を知らないという意味で、愚かだという他ない。具体的には「ロックに対するルソーの批判」として知られていることです。

ルソーは、ロック流の間接民主主義(代議制)について、選挙の時だけ参加して、あとは奴隷になる仕組みだとし、だから直接参加なければならないと言いました。むろんルソーが想定していたのは小さなユニット。数千万人の大きな国ではとても無理な話です。

でも、ルソーの国フランスでは、間接民主主義の「選挙と選挙の間は奴隷になる」という欠陥──僕たちは実際アベノミクス選挙で勝利した安倍政権によって民意を無視した好き放題をされています──をデモなどの直接参加によって補完するようになりました。

国民国家が軒並み数千万人規模になったのは20世紀の話で、以前は民主主義を思考する人々はずっと小さな単位を想定していました。その時代の民主主義の本質を一口で言えば「参加による自治」。リンカーンの「国民の、国民による、国民のための」も同じです。

19世紀の段階でアメリカは巨大人口を抱え、ヨーロッパ諸国も20世紀にそうなりますが、そこで考えられたのがアメリカで言えば「共和政の原則」で、ヨーロッパで言えば「補完性の原則」。双方、自治的スモールユニットが寄り集まって共生する仕組みです。

アメリカなら、元々は信仰共同体である州が集まって連邦を作る。ヨーロッパなら、自治都市や領邦が集まって国を作る。まずは顔が見える我々ができることは我々がやり、それが不可能な場合には上層の行政ユニットを順次呼び出していく、というやり方です。

共和政の原則でも、補完性の原則でも、規模に対応して結合体の結合を構成するべく、間接民主制(代議制)が導入していますが、どちらの場合にも共通して、下から上へという方向性にみられるように「民主主義とは多数決でなく自治だ」という原則が貫徹します。

自治とは、規模に対応する便宜として代議制を導入するものの、代議士に任せないということです。だから僕は、国民投票を推進する運動体の代表をやりつつ、「〈任せて文句たれる政治〉から〈引き受けて考える政治〉へ」というスローガンを掲げて来ました。

党議拘束は民主主義を破壊する

宮台:自治と並ぶ民主主義の本質は、熟議です。単なる話し合いということではない。話し合いを通じて、知らなかった事実に気づき、価値が変容するということです。そうした気づきと変容を通じて、新しい「我々」が再構成されるということも、含んでいるのです。

自治的な熟議を通じて絶えず再構成される共同体を、19世紀前半に『アメリカの民主主義』を現したA.トックヴィルは、伝統的な共同体と区別してアソシエーション(結社・団体)と呼び、あるべき国家を複数のアソシエーションの共和的結合として描きました。

先進各国では教科書的なこうした常識を、知った上で発言している日本の政治学者や政治家がどれだけいるでしょう。そのことを考えて見ると、日本の民主制=制度としての民主主義は、実態としての民主主義を機能させていないという意味で、機能不全です。

日本の民主制の出鱈目ぶりを象徴するのが「党議拘束」。そんな英語があったかなと調べてみたら、複数の辞典にcompulsory adherence to a party decisionとありました。無理やり党の決定に従わせることという文章です。単語としては存在していないのです。

ひどいでしょ? 何がひどいって分かりますか? 候補者個人が選挙公約をしても、党議拘束に従うしかなければ、意味がなくなるでしょ。また、党が予めこうすると決めているなら、国会審議も意味がなくなる。初めからシナリオ通り振る舞うしかないのだから。

党議拘束があると、どんなに審議時間をかけても──安保法制の審議に百時間以上使ったとホザく輩がいますが──議員の内部で生じた気づきや価値変容に従って立場を変えられません。何のための審議ですか? 審議しても結果が変わらないなら審議って何よ。

官僚の無限拡大を帰結する枠組

神保:付け加えたいのは、今回の安保法制で一番得るところが多いのは、安倍政権でも自民党でもなくて、官僚なんです。この法案は官僚権限の無制限の拡大を謳ったものであることが、国会の審議を通じて明らかになりました。武力行使を含め、権限の行使に対する歯止めがないし、その権限をいつ行使するかも、政府が独自に決めていいことになります。

政府っていうと安倍政権を想定してしまうかもしれませんが、政権というのはしょっちゅう変わります。しかし、その下にずっと続いているものがあって、それが官僚機構なんですね。次にどんな政権ができようが、この法律ができてしまえば、それは残ります。この法律の下では官僚機構が、例えば自衛隊の安全を確保する基準もないまま、海外に派兵することが出来るし、そもそも日本が武力攻撃を受けていなくても、独自の判断で武力を行使できまるようになってしまいます。

官僚機構は今回この法案で、絶大な権限を獲得しました。特定秘密保護法でも、莫大な権限を獲得しています。つまり、安倍政権下で官僚の権限は、それ以前とは比較できないほど大きくなってしまいました。安倍政権はおそらくそういう意識がないまま、その片棒を担がされているのでしょう。政治家は自分たちが政権を握っている時のことだけなく、将来自分たちが政権から滑り落ち、自分たちの政敵が政権の座についた時、その政敵にこの法案が謳っている権限をゆだねても本当に大丈夫なのかを常に考えておかなければなりません。

僕は参院特別委員会の鴻池委員長も、この法案には不安を抱いていたのではないかと思っています。鴻池さんは委員長だったので、すべての審議を聞いていました。あの審議をすべて聞いていれば、今回の法案には最小限度の武力行使の意味も、自衛隊の安全確保の基準も、実際には何も書かれてないことを理解しているはずです。国会の審議を通じて、これまで安倍政権や政権与党が説明していたことが、実際には法案に書かれていないことが明らかになりましたから。

例えば、「最小限度の武力行使」とか「存立危機」といった言葉の意味は、ことごとく「政府が総合的に判断する」ものであることがわかっています。要するに最小限度がその程度の武力を意味しているのかも、そういう状態が「存立危機」なのかは、全く基準などなく、すべて政府が独自の判断で決められることがわかりました。

今回の法案は、そもそも憲法に違反しているという、法律としての根本的な問題があったため、特に衆議院の審議ではその部分に膨大な時間が割かれてしまいました。結果的に参議院の審議までは、法案の内容にどのような問題があるかを詳しく議論されることがありませんでした。

違憲な法案が出てくれば、まずはそれが違憲であることを明らかにすることが最優先にならざるを得ないので、法案の中身の問題点を細かく議論することが難しくなります。しかし、仮に1000歩譲って憲法論争を横に置いたとしても、この法案は法律としてあまりにも問題が多い欠陥法案だということなんです。どんなに違憲であろうが、一旦、法案が可決してしまえば、最高裁が違憲判決を出すか、もしくは別の政権がその法律を無効化する法律を通さない限り、その法律は法律として運用されてしまうんです。だから、どんな悪法であっても、その内容を厳しく検証することは国会の重要な責務となるわけです。

今回は安倍政権は何があっても今国会でこの法案を通すつもりてじた。だから、違憲であろうが欠陥法であろうが、官僚の権限を無限拡大する法案が、少なくとも一時的には法律となり、執行されてしまいます。

その事の重大さを考えたら、党議拘束なんていう国会の細かい慣例などに拘っている場合ではありません。政治家は一人一人がこの法案のヤバさを認識し、自らの良識に従って投票しなければならないと思います。

しかし、以前に自民党衆議院議員の村上誠一郎さんが言っていたことですが、今は党の権限が圧倒的に強くなっています。小選挙区比例代表並立制の下では、党の公認権は絶対的なものになります。小選挙区でも党の公認は必須です。比例の名簿に掲載順位も党が決めます。政党助成金の配分も党だし、与党の場合は閣僚を含む政府の役職の人事権も党の代表、つまり首相が握っています。

例外的に、地盤が強くて、たとえば村上さんのように、一匹狼でやっても選挙に勝てる人が数人くらいはいるかもしれませんが、そんな人はほんの一握りで、ほとんどの人は党に従わざるを得ない。党議拘束破りなんてしたら、それこそ政治生命を断たれてしまうことになります。

官僚が政治家に勝ちやすい現代

宮台:官僚権限の無限拡大傾向は、先進国共通の大問題だとイタリアの政治思想家アガンベンが言います。彼によれば、社会が複雑で流動的になると、社会の全体がどうなっているのかを政治家一人ないし政治家集団が考えたところで、何も分からなくなりがちです。

誰が分かるのか。答えは行政官僚。彼らは多種多様なデータを持つだけてなく、それらを自由自在に組み合わせてストーリーを作れます。政治家がそれに抗うのは並大抵ではありません。だから近代国家から現代国家への流れを「主権から執行へ」と表現します。

「主権」とは、「政治家が形の上で決めること」を意味します。「執行」とは、「行政官僚が事実上全てを決めること」を意味します。民主政は主権をめぐる仕組ですから、主権が執行に翻弄される──政治家が官僚に騙される──状態は、明らかに民主政の危機です。

主権と執行──政治家と官僚──をめぐるこうした議論は、政治家と官僚の利害が究極的には衝突する他ないとするウェーバーの考察を前提にします。アガンペンの議論は、政治家と官僚の戦いでは専ら官僚が勝つようになるという診断にポイントがあるのです。

ちなみにウェーバーによれば、官僚とは、既存プラットフォームの永続を前提に人事と予算の最適化に勤しむ存在。これに対し、政治家とは、国家や国民のためにイザどなれば既存プラットフォームを引っ繰り返すことを厭わぬ存在。だから利害が衝突します。

憲法とはホワイトリストである

宮台:官僚権限拡大を抑えられないのは、改憲しないと作れない安保法制を、改憲せずに作れるように何とかして工夫しろと安倍晋三に指令された官僚たちが、一見すると合法的適正手続きdue process of lawに則って、適正手続きを破壊し尽くしたことがあります。

合法的適正手続きとは単に法を破っていないことを言うのではない。とりわけ憲法や国民の命運を左右する重大な法については、「やっていいと書かれていないことをやってはいけない」というホワイトリスト(オプトイン)として、理解しなければならないのです。

ホワイトリストの反対がブラックリスト(オプトアウト)です。「やっていけないと書かれていないことはやっていい」とするものです。安倍政権を支える官僚たちが、安倍に「やっていけないと書かれていないことはやっていい」と助言している可能性があります。

憲法的枠組をホワイトリストとして理解するべき理由は、何か。「やっていけないと書かれていないことはやっていい」ブラックリストだと理解すると、合憲的であっても、非立憲的−−立憲主義の本義に反する−−決定の累積で、憲法が有名無実化するからです。

典型が安倍による内閣法制局長官の挿げ替えです。説明します。どんな明示的ルールも、ヒュームによれば必ず黙契(conbention)つまり暗黙的ルールを前提にします。ヒュームの議論は、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を用いて考えると分かりやすい。

ヴィトゲンシュタインによれば、人を殺さないことは、凡そ全ての言語ゲームの前提です。なぜなら、人が生きていないと言語ゲームができないからです。だから、人を殺さないことは、他のルールと違って、凡そ全ての言語ゲームの暗黙の前提を構成します。

明示的な前提と暗黙の前提は、僕がコミットする予期理論を使うことで記述できます。明示的な前提とは「彼は僕を殺さないと思う」という主題的予期ですが、暗黙の前提とは「彼が僕を殺すとは思いもよらない」という地平的予期です。両方は似て非なるもの。

「彼が僕を殺すとは思いもよらない」「明日地震が起こるとは思いもよらない」という地平的予期は、それが破られた際に初めて地平的予期の存在に気づく類のものです。しかし予期が存在しないのではない。構造言語学的な言い方ですが、地平には存在します。

適性手続きを安倍晋三が壊した

宮台:国会論戦がどんなに激しくても、国民世論がどんなに障害でも、「だったら内閣法制局長官を挿げ替えて解釈改憲すりゃいいじゃん」みたいなことを言う輩が出てくるだろうなんてことを、誰も予期していなかったということが、ここでのポイントなのです。

「内閣法制局が憲法解釈を定めたのなら内閣法制局が憲法解釈を改めていい」という議論は、「オレが約束したんだからオレが破るのも勝手だ」とほざく輩と同レベルの議論ですが、ここでのポイントは「まさかそんな輩がいると思わなかった」ということです。

まさかそんな輩が出てくるとは誰も思っていなかったから、内閣法制局長官の任命権限を総理大臣に与えてきた。それが暗黙のルールと明示的ルールとの前提・被前提関係です。そうした意味で、全ての明示的ルールは暗黙のルールを前提にしている訳です。

憲法が法律と違い、同一性が文面ならぬ憲法意思にあるとされるのも、市民を名宛人とする法が「やってはいけないと書かれていないならやってもいい」のと違って、統治権力を名宛人とする法が「やっていいと書かれてないならやってはいけない」ものだから。

つまり、憲法を踏まえる(という意味で立憲的である)とは、「そんな輩が出てくるとは誰も想定していなかった」という類の地平的予期の数々を、たとえ明示されていなくても——地平的だから明示されていないのですが——破らないことを意味するわけです。

due process of lawつまり合法手続きに則る営みは、とりわけ憲法的な枠組に関連する部分については、「与えられた権限を、禁止されていないならどう行使してもいい」というような安倍晋三的な読解を、徹底的に退けたところにしか成立しないものなのです。

民主政も憲法も合法的に壊せる

宮台:「選挙で通ったらそのあと何でも出来る」と思うような愚者が政権を取れば、民主制は民主主義的に作動しなくなりますし、合法的に与えられた権限を「禁止されていないならどう行使してもいい」と思うような輩が政権を取れば、憲法は有名無実化します。

どちらも、「明示的ルールが前提とする暗黙のルールを踏まえる」という、保守主義的な節度と、歴史に学ぶための教養とを、兼ね備えた者にとっては自明な振る舞いを、一顧だにしない輩が政権をとった場合に、どうなるかということを示す、典型例です。

どちらも政治学や法学の教科書に書かれた初歩的事柄ですが、戦後の日本人は今回それを初めて目の当たりにしたと思います。安倍首相にはそこから学ぶ能力はないでしょうが、国民の多くは「形は合法的でも実質がおかしい」ところから多くを学んだ筈です。

学びと言えば、鴻池さんの話が出ましたが、鴻池さん御自身も審議を通じてやっと分かってきたことが沢山ある訳です。ただ、党議拘束があるので、途中から「どうもおかしい」と感じるようになっても、シナリオから外れることは、もちろんできませんね。

しかし、だからこそ、国民の多くは、民主主義とは、最初から決められたシナリオに従い数で押し切ることではなく、熟議を通じて、知らなかった事実に気づき、自らの価値の変容を促され、それを決定に繋げることだと、初めて気づいただろうと思います。

ところが「熟議を通じて、知らなかった事実に気づき、自らの価値の変容を促され、それを決定に繋げる」プロセス、日本にありますか? ないでしょ? ないと、どんな危険が起きるか。答え。暴走しがちな行政官僚の裁量行政に白紙委任状を渡してしまうこと。

外国で戦力を行使できるようになることで戦後レジームからの脱却みたいな気分に浸れると思い込んだ首相に、憲法を変えずにそれを実現しろと発破を掛けられた官僚らが、しかし首相を含めた政治家が気づかない間に、権限の無限拡大を各所に仕込んでいます。

刑事訴訟法等改正案では、密告型の司法取引の導入や、盗聴範囲の拡大など、検察と警察の権限拡大の方向が盛り込まれています。これも多くの場合、国会議員が、拡大した検察・警察権限の適用対象になり得る事実を、当の議員が分かってない体たらくです。

いや、分かっている議員もいるでしょう。審議のプロセスで「ああこれはまずい」と思うようになった議員もいるでしょう。いたとしても、党議拘束があるから、意見を変えてノーといえない。党議拘束ってのは、その意味で、議員たちの自滅行為なんです。

公聴会が儀式だと認めた委員長

神保:今回、注目して欲しいのは、9月15日と16日に行なわれた公聴会です。SEALDsの奥田さんの話が注目されましたが、あの2回の公聴会では、一連の国会審議を通じて出てきた法案の問題点が、公述人から指摘されていたんです。だから公聴会はとても重要でした。

公聴会っていうのは、英語でpublic hearingです。Public、つまり国会の外の一般の人たちの意見を聞いて、それを国会審議や法案に反映させていくためのプロセスです。しかし今回政府・与党は公聴会の後、その日のうちに法案を採決する構えでした。結果的に野党の抵抗で委員会採決は翌日に、本会議の採決はさらに2日後まで伸びましたが、要するに政府・与党は最初から公聴会の中身を法案に反映させるつもりが全くなかったわけです。

実際に横浜の公聴会では、冒頭、後述人の一人だった水上貴央弁護士が、「この公聴会はセレモニーなんですか? それとも本気で聞くつもりがあるんですか」と鴻池委員長に質す場面がありました。

これに対して鴻池委員長は、「今、ちょっと理事が(採決の日程を)話し合っているところです」としか答えられず、それがセレモニーであることを否定しませんでした。そして、現にそうなっちゃった訳ですよね。

公聴会はほんの一例ですが、他にも安倍政権は違憲の疑いのある法案を提出するために、内閣の人事権を濫用して内閣法制局長官を集団的自衛権の容認派にすげ替えたり、10本もの法案を1本にまとめて審議したりと、今回の安保法制の制定過程は、民主主義的な正統な手続きをことごとく無視したものでした。

所詮は国防総省の予算請求問題

神保:もう一つ、なぜ安倍政権はあれだけの強行策に出てまで、法案の採決を急いだのかを考えておく必要があります。今回国会は、戦後最長となる延長幅をとり、9月27日まで延長されていますが、通常国会は一回しか延長ができません。再延長はできないわけです。だから、もしそれまでに法案を通せななければ、今国会での成立に失敗することになります。でも、急ぐ理由の一つに日中間の緊張があるという人がいますが、中国と日本の間で何があった場合は、個別的自衛権で対応できることなので、別にこの法案は関係がありません。

だから、野党があそこまで採決に反対し、世論調査では国民の大多数が審議は尽くされてないと考えていることもわかっているのだから、今国会で無理はせずに、次の国会で継続審議にすればいいはずじゃないですか。

だけど、安倍政権としてはそうはいかない。それはアメリカと約束しちゃったから、なんです。安倍さんは5月に訪米した時に、議会で大見得を切って、夏までの可決を約束しちゃいました。

アメリカとの約束を守るためには、野党はおろか、国民の反対があっても、なりふり構わず突き進む。そこのこの法案の性格が、色濃く出ています。それこそが、この法案の本質であり、指摘された数々の問題点も、根本的な問題がそこにあるのではないでしょうか。

宮台:そうです。しかも「アメリカとの約束」といっても、政治学者の藤原帰一さんによれば、国防総省は喜んでいるけれども、アメリカ政府は、別に急いでそんなものを制定してもらいたいとは思っていない。簡単に言えば、どうでもいいわ、ということですよね。

その意味では「アメリカがそれを日本に要求している」ていう言い方は、いつもミスリーディングです。ほら、「アメリカは⋯」ってよくいうでしょう? 今回も「アメリカは⋯」という主語を使っているけど、実際このケースは国防総省でしょ、基本的には。

神保:そこです。その国防総省ですが、これは国防総省の準機関紙である「スターズ&ストライプス」で報道されていたことなので、信頼できる情報だと思いますが、国防総省の来年度の予算要求は、日本がこの法案を通し、これまでよりも大きな軍事負担をしてくれることを前提にしたものになっているそうです。

つまり、安保法案が夏までに通るといわれたんで、じゃあ来年からは日本がここまでやってくれるだろうから、予算はこのあたりはいらないや、ということで、アメリカの国防総省が既に法案の可決を前提に動いているということなんですよね。少なくとも日米の政府間では、この法案は既に完全な既成事実になっているんですね。

そうしたプレッシャーもあって、安倍政権としてはとにかく何があっても、この国会で通さないとダメだということになってしまったようです。結局のところ、その法案は日本の自発的な行為でもなければ、そもそも日本のためのものではなかったということなんですね。

宮台:国防総省の予算請求問題なんですよ。

神保:そこに問題の本質があると思います。だから、たとえば武力行使の基準となる存立機器事態も「政府の総合的な判断」としか決められなかった。我々から見ると、それは抽象的すぎて政府がやりたい放題できてしまう危険な法律ということになりますが、アメリカが戦争への協力を求めてきた時に協力できるようにしておくための法案だとすると、事前に基準を明示するわけにはいかなくなります。かといって、どういう時に武力を行使するのかについて「アメリカから求められた場合」とは法律には書けません。だからああいう内容になった。

ただし、今はアメリカのために通した法案であっても、その後どのように運用されるかはわからないので、やはり官僚の暴走の危険性は否定できません。その暴走はアメリカからの協力要求の枠内で行われることになるか、その外まで拡大するかの違いは、われわれにとっては大きな意味を持ちません。どんな理由であろうが、憲法も国民の意思も無視して、国民の命を危険に晒すような武力攻撃を行うことが問題なのですから。

半分冗談のように聞こえるかもしれませんが、野党は不信任案は問責決議案を立て続けに出すよりも、アメリカ政府、とりわけペンタゴンにロビーイングをした方が、効果的だったかもしれません。アメリカ政府に、民意の支持を得ないままこの法案を無理矢理通すことはアメリカにとっても得策ではないと説明し、とりあえす無理の今国会で通さずに、継続審議とすることを認めてもらえれば、案外丸く収まったかもしれません。まあ、そんなこと出来っこないし、それではGHQ時代と変わらなくなってしまいますね。

ただ、頭のいい官僚たちはこのあたりのことも全部わかっています。彼らとしても、政治の世界は「一寸先は闇」で、この先、安倍政権もどうなるかわからないので、通せる時に通してしまいたいというのが本音だと思います。権限を拡大し、予算を拡大するチャンスは絶対に逃さないのが官僚の基本的な行動原理ですから。

議会の暴走には抵抗権の行使で

宮台:行政官僚の無限肥大については、ウェーバーが述べたように、行政官僚機構を抜本的に変える意欲と力を持つ強い政治勢力を、有権者が選挙で誕生させるしかありません。国民を前に威張る行政官僚も、国民の空気に押された政治家の空気には、弱いのです。

神保:民意に裏打ちされた政治家の意思には弱い、ということですね。

宮台:そうなんです。だから、行政官僚が裁量行政の無限拡大を狙っていても、国民の間に澎湃として巻き起こった巨大な世論が、特定の政治家や政治勢力を後押ししている場合には、そういう勢力を官僚が騙したり潰したりすることが、非常に難しくなるんですね。

神保:民意の裏付けがないと、例えば鳩山さんがいきなり「少なくとも県外」とか言い出しても、それだけじゃ官僚は政治家を怖がらない。政治家が丁寧に国民を説得をして、十分な国民の支持を得た上で官僚に命じれば、仮にそれが官僚にとって都合の悪い命令だったとしても、官僚にそれを止める力はありません。

宮台:ただし民意が相当大きい場合に限られます。官僚が政治家を丸め込もうとしても、政治家が窓の外を指して「この大規模なデモを見てくれ、この国民の声のうねりに逆らって、私が政治を行なえる筈がないだろう」という風に政治家が言うことで官僚が黙ります。

行政官僚も「大規模な国民の声に逆らったら、俺たちもひどいことになるかもしれないな」と思うからです。だって、行政官僚の最終的な人事権は、日本の場合は限られているとは言われていますが、しかしそれでも「文面上は」政治家にある訳ですからね。

神保:だから、デモには意味があるし、僕は暴動を奨励するつもりはないけれども、市民の抵抗権は民主主義の最後の砦です。ドイツなどでは基本法=憲法で抵抗権が保証されているし、アメリカの憲法第二修正条項に定められている市民の武装権も、政府に対する抵抗権の一環です。

日本ではまだデモに対する抵抗というか、デモが反社会的な行為であるかのような見方をする人が少なからずいるようですが、デモは民主主義の大事なパーツの一つです。逆に、今回、日本でデモが大規模になってきているということは、その手前の民主主義の防波堤がことごとく突破されたと国民の多くが感じていることを反映しているんですね。デモよりも手前にある民主主義の防波堤が機能していれば、別にそんなデモなんかしなくてもいいわけですよ。自分たちの意見がきちんと政治に反映されていると感じることができれば、誰もデモなんてしませんから。

ここで言う突破された民主主義の防波堤とは、例えばこれまで中立的な立場で憲法との整合性をチェックする機能を担っていた内閣法制局長官に、集団的自衛権の容認を公言する外務官僚を一本釣りで任命したり、これまた民主主義の重要な防波堤の一つであるメディアに容赦なく介入をしてみたり、閣議決定で憲法の解釈をしたかと思えば、いい加減な国会答弁を繰り返した挙げ句、法案を強行採決をしてしまったことなどです。

そのようにこれまで曲がりなりにも機能していた民主主義のセーフティネットが、次々と破られていくのを目の当たりにして、最後はデモに訴えるくらいしか権力の暴走を止める手段がなくなっていたと、多くの人が感じていた結果が、あのデモの盛り上がりだったのではないかと考えています。

宮台:そうなんです。選挙で通ったらなんでも出来るぞ、という人が政治をやっている場合にどうやって戦うか。簡単に言えば「ルソー的な戦い」しかありません。代議制で選んだ人が暴走している場合には、次の選挙までの間は、抵抗権を行使するしかないのです。

神保:その意味で安倍政権は、実は日本の民主主義の中興の祖になるんじゃないか、みたいな冗談が、マジで成り立ちそうですね。

宮台:まず、憲法が統治権力を縛るものだということを国民の多くが知る初めてのチャンスとなった。さらに〈任せて文句たれる政治〉だけでは政治が暴走し得ることを初めて知った。これらに気づかせてくれた安倍晋三さん、どうもありがとうございます!(笑)

(構成:東郷正永)

*本連載は今回で終わりです。

<連載「みなさんの常識は、世界の非常識」概要>
社会学者の宮台真司氏がその週に起きたニュースの中から社会学的視点でその背景をわかりやすく解説します。本連載は、TBSラジオ「デイ・キャッチ」とのコラボ企画です。

■TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ!」

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