川淵三郎・タスクフォースチェアマン インタビュー予告編
日本プロバスケリーグに見る、無限の可能性を探って
2015/6/11
朝方3時に目が覚める。今年に入ってそれがひと月続いたという。
「体育館での営業はどこまで可能なんだ」
「体育館ではダメだ。アリーナに人を集められるよう、自治体の協力を得なければ」
「自治体を含めるホームタウン制は、バスケット界で理解されるだろうか」
「観客実数などどこも把握していないのではないか」
考え出すと眠れなくなる。当時、バスケットのために浮かんだアイデアやヒントを書きこんだメモは詳細で莫大な量になった。考え事がより具体的になり数字が頭に浮かぶと、同時に血圧も上昇していったようだと振り返る。
上が200、下が100。そんな恐ろしい数値を明け方に記録してしまうのだ。日本バスケットボール界の危機を救うといった良い響きではあるが、健康を引き換えにしかねない激務を引き受けるのに、賛成する者はいなかった。
78歳のロケットスタート
一方で、選手の夢でもあるオリンピック出場をかけた予選に出場できない厳しい制裁処分は、一刻も早く解除しなければならない。選手が犠牲を払う状態は、それがたとえ健康と引き換えのリスクを背負ったとしても、他協会の不祥事であっても、見過ごせるはずはなかった。
1964年の東京オリンピックにFWとして出場し、日本代表監督も歴任。サッカー界一丸となってワールドカップ(W杯)出場を目標に掲げ、プロサッカーリーグ(Jリーグ)を誕生させ、移動、宿泊など世界的に見てもトップクラスの環境を誇る日本代表を築きあげた原動力は常にただひとつ、「アスリート・ファースト(選手を最優先に動く)」の揺るがぬ信念があったからだ。
FIBA(国際バスケットボール連盟)から科せられた無期限の制裁解除を実現し、選手を2016年のリオデジャネイロ五輪予選に出場させるため、「タスクフォース」チェアマンは78歳でロケットスタートを切った。
1月にFIBAが主導した10人のメンバーによるタスクフォースが初招集されて以来、「川淵チェアマン激怒」「川淵氏、怒りを露わに」といった原稿が飛び交い、その横には必ず、眉間にしわを寄せ、いかにも血圧が上昇しているかのように語気を強める写真がピックアップされる。
しかし怒っているのではないと感じた。
諦めているのなら、バスケットボールに未来はないと判断しているのなら、そもそも朝3時に血圧を200に上げるまで考え抜く必要などないだろう。
メディアに「どんな記事でもいいから1行でも多く書いてほしい」と願い、1時間以上の囲み取材に一人で応じ、会議をオープンにする理由もない。
バスケットボール界の潜在能力を知り、選手を含めて一丸となれば、どれほどの変革をスポーツ界全体にもたらせるか、夢の輪郭がはっきり見えていたからこそ、現状に落胆し、嘆いていたのではないか。
5000人という数字は気まぐれではない
怒っているかに見える会見の背後に実は、日本バスケットボール界の可能性、サッカーをしのぐ世界最大の競技人口を持つスポーツのファンと共に描く夢が大きく膨らんでいたように思う。経営に踏み込んだ数字が初回から次々と明らかになったからだ。
流動的ではあるが、初回から目指すべき方向は「夢」といった甘い言葉だけではなく、「数字」が示していた。Jリーグが始まる前にも、川淵氏をはじめ関係者が、1万5000人収容のスタジアム、照明の明るさを1500ルクスとするなど細かく数字でハードルを設定したのに似る。
5000人収容アリーナには特に「無理に決まっている」と強い反発が起きたが、これがただの気まぐれから出た数字などではなかったとは想像さえされなかったのだろう。
定性と定量、情熱と分析、チェアマンとして関わる2度目の新しいプロリーグもまた、「夢と数字」という川淵氏の強固な「メソッド」によってかたちになりつつある。
そういえば、東京五輪へ日本代表を導き、半世紀が経過した今でも「家族」として親交を続ける日本サッカーの父、デッドマール・クラマー氏(90)と同じく、ドイツ人のインゴ・ヴァイス氏が特別なパートナーとなったのも不思議な縁なのかもしれない。
チェアマンは言う。
「もう、体がどうにかなってしまうかというほどバスケのことばかり考えたのは、本当に面白くなるだろな、と確信していたからだった」
5月31日、bj、NBL全47チームが参加を表明した「JPBL」が本格的に始動した。無論、2016年秋まで、ハードルはいくつもある。
「夢と数字」でJPBLにスイッチを入れた2度目のチェアマンに、バスケットボール界の無限の可能性を聞いた。怒る場面は一度もなかった。
*川淵三郎氏インタビューの第1回は、6月12日(金)に掲載する予定です。