高齢者に対する新型コロナウイルスのワクチン接種が始まった。集団免疫獲得への第一歩だ。大きな混乱はなく、打ち終えた人からは安堵の声が上がる。だが、当初の供給量は少ない。変異株も広がり、むしろ不安は強まっている。

高齢者向けのワクチン接種が全国の自治体で順次始まった。写真は4月12日、東京都八王子市(代表撮影)
高齢者向けのワクチン接種が全国の自治体で順次始まった。写真は4月12日、東京都八王子市(代表撮影)

 4月12日午前9時。東京都八王子市の市役所本庁舎1階で、高齢者へのワクチン接種が始まった。医師3人と看護師6人が対応し、問診を受けた高齢者の腕に注射針を刺していく。顔をゆがめる人は少ない。この日の対象者は250人ほど。接種を終えた人は15分間の経過観察のため椅子に腰かけていた。

 この会場ではこの日、アナフィラキシーと呼ばれる重いアレルギー症状は出なかった。八王子市諏訪町の原村京子さん(80)は、「感染に注意することはこれからも変わらないが、ワクチンを接種できて安心した」と笑顔をみせた。同市加住町の住職、赤塚良孝さん(74)も「仕事柄、よく人に会うので、早く接種をしたかった。それほど痛くなかった」と話した。

 同日に全国のトップを切って接種が始まった東京都世田谷区や北九州市、北海道江別市などでも大きな混乱は起きていない。だが、ようやく始まった接種を通じ、経済規模で世界3位の日本がワクチンの対応で出遅れた現状が浮き彫りになっている。65歳以上の高齢者、3600万人に対して必要な7200万回分のうち、4月末までに自治体に届くのは280万回分と必要量の4%弱にとどまる。

 国・地域別の人口100人あたりの累計接種回数(4月15日更新、日本経済新聞社・英フィナンシャル・タイムズが集計)で日本は1.4回にとどまる。2月17日に始まった医療従事者への接種も当初スケジュール通りに進んでいない。

 トップのイスラエルは113.7回と国民1人あたり、既に1回以上の接種を終えている。人口3億人超の米国でも57.9回に達した。先進国だけではない。日本はインドやインドネシアといった多くの新興国にも後れを取り、途上国の水準にある。

 この遅れを時間に換算すると数カ月になるだろう。だが、今の日本はこの数カ月の間に第4波、あるいは第5波を迎える瀬戸際に立たされている。高齢者向けワクチン接種が始まった4月12日には「まん延防止等重点措置」が東京、京都、沖縄の3都府県に適用された。4月14日に確認された国内新規感染者は1月28日以来の4000人超となった。

 感染が広がり続ければまん延防止措置や緊急事態宣言の発令で経済活動が制限される。国内の個人消費の回復が遅れるだけでは済まない。欧米や新興国が先行して集団免疫を獲得し、出口戦略を取り始めたとき、日本で感染が広がったままだったら、どうなるだろうか。日本企業の国際競争力に悪影響を与え、日本ブランドの力を引き上げてインバウンドを呼び込むという日本の成長戦略も破綻しかねない。

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WHOの制止が効かない

 仙台市は4月5日の記者会見で、2月以降に新型コロナの感染が確認された検体の一部を検査した結果、8割が「E484K」と呼ばれる変異ウイルスだったと発表した。この後、仙台市周辺の病床使用率は9割に達した。感染力の強い変異型は長期入院につながるケースも多く、病床の回転効率を落とすことが懸念されている。全国で課題になっている中等症から重症に転じた際の転院の調整もなお進んでいない。

 現在のワクチンが効かない変異株が登場する可能性もある。ワクチンの導入遅れの原因を突き止めて手を打っておかなければ、変異株に対応するために新しいワクチンを導入しようとしたときに同じ事態を繰り返しかねない。

 ワクチンは国民の命を危険にさらすリスクを下げ、経済を円滑に回していくためにも必要だ。それなのに日本はどうして後手に回ったのだろうか。

 そもそも日本政府はワクチン確保の出足が遅かった。公衆衛生の意識が高いことから感染防止の水準は高く、累計死者数(4月15日時点、米ジョンズ・ホプキンス大学集計を日経まとめ)は9471人と、米国の56万4280人、インドの17万2085人、フランスの9万9936人などと比べて少ない。死者数の少なさが油断を生み、グローバル製薬企業にアクセスするスピードを鈍らせた。

 「人種差が想定され、日本人を対象とした一定の治験(臨床試験)を行う必要がある」。2月8日の衆院予算委員会。菅義偉首相はワクチン接種が遅れた説明に追われていた。海外ワクチンの供給に向けて、国内で安全性を確認する小規模な治験を求めるというのが政府の基本姿勢。早期のワクチン供給への世論の期待は大きいが、深刻な副反応が出れば、承認者としての責任を問われる。それゆえ慎重にならざるを得ない。

 だが、この間に欧米諸国は日本政府の想定を超える猛スピードでワクチンをかき集めていた。競争に敗れた結果が契約に現れている。政府は昨夏、ファイザーと21年6月末までにワクチン6000万人分(1億2000万回分)の供給を受けることで基本合意していた。今年1月20日発表の正式契約では、21年内に7200万人分(1億4400万回分)の供給に変わっていた。超売り手市場で時期が後退しており、国内のワクチン不足に拍車をかけることが想定される。

 製薬会社から各国政府が直接、ワクチンを買い付け、自国優先で配布する現状を、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は「短絡的で自滅的だ」と批判している。だが各国が自国民の生存と景気回復を最優先するのを止めることはできないだろう。日本は国際競争に敗れたうえ、創薬国なのにワクチン開発も進まず、八方ふさがりに陥った。

グランドデザインを描くリーダーが必要

 コロナウイルスを巡っては、厚労省で職員の深夜宴会が表ざたになるなど悪目立ちする出来事もあった。このため政府はコロナ対策に真剣に取り組んでいないのではないかという印象を与えがちだ。だが、個々の担当者が目前の仕事に懸命に取り組んでいないわけではない。欧米のメガファーマとどう交渉し、治験をどう判断するか、国産ワクチンにどんな役割を担わせるか。感染状況を勘案しながら総合的に判断する。こうした全体最適を促す仕組みが足りないことこそが問題だ。

 菅首相がワクチン担当に河野太郎規制改革相を急きょ任命したのも、接種の環境整備が遅れているという危機感があったからだろう。河野氏も問題の所在を次々に指摘している。だが、突破力がある人材でも、1月に任命したのでは遅すぎたのではないだろうか。

 イスラエルではネタニヤフ首相が接種状況のデータをファイザーに提供する決断をし、ワクチンを自国に引き込んだ。台湾ではデジタル担当相がマスクの在庫を常時、確認できるアプリを3日間で開発し、感染を抑えた。ワクチンを巡る日本の問題はいずれも、医療制度を含めたグランドデザインを描くリーダーがいないという問題が根底に横たわる。変異株の広がりで、感染状況に暗雲が垂れ込めている。眼前の疫病危機は対症療法で切り抜けられるようなものではないはずだ。

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