お知らせ:Editor's Lounge

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10年前に福島第一原発事故が起こったとき、いまやモノクロームでしか思い出せないあの何日間かに、ぼくは積ん読だったティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』を一気に読んだことを覚えている。それは核戦争という終末に取り憑かれシェルターの穴を掘り続ける男の物語だ。果たして「安全」とは、何から何を守ることを指すのだろうか? そういえばウィリアム・ギブスンは「20世紀に発明された最も破壊的なテクノロジーは核兵器だと思っていたけれど、実際はプラスティックの発明こそが地球を回復不能なまでに破壊している」と言っていたっけ。

だが、日本はその核兵器で破壊され、原発事故によってさらに破壊された国だ。東日本大震災から10年という節目を迎え、メディアもさまざまな特集を組んでいる。「震災関連死」とくくられて亡くなった方々や、それにくくられることさえなく、でもあの日に人生が一変し、苦難を味わい、家族を失い、あるいは亡くなった方々一人ひとりのパーソナルヒストリーがいまでも圧倒的に迫ると同時に、いまだ崩壊したままの生活やコミュニティ、10年がたっても癒えることのない気持ちを思うと、暗澹たる思いとなる。

『WIRED』はこれまで、そうとは明言したことはなかったかもしれないけれど、「エコモダニズム」と言える立場をとってきた。ファクトや科学に基づいて、環境問題の合理的な解決策を標榜するものだ(先日ご紹介した「効果的な利他主義」にも通じるものがある)。それは、本当に二酸化炭素の排出を止め地球環境を守りたければ原発を推進すべきだ、という立場に端的に表れている姿勢だ。

「フードイノヴェイションの未来像」ウェビナー開催!
ゲスト:サラ・ロヴェルシ(Future Food Institute創設者)

最新回のテーマは「“食の主権”をコモンズによって取り戻す」。自分たちが食べるものを自らのコミュニティが選び、生産・流通するといった「食料主権」を再び自分たちの手に取り戻すことはいかにして可能なのか?詳細はこちら。

例えば、伝説の「ホール・アース・カタログ」によって全球的な人類の叡智を探求したスチュアート・ブランドは、著書『地球の論点──現実的な環境主義者のマニフェスト』(邦訳は3.11のわずか3カ月後に刊行された)において、環境危機にいますぐ立ち向かうためには、次世代の、より安全な原子力発電が不可欠だと書いている。最近でもビル・ゲイツが同じ文脈から第4世代の原発に自らも投資し、「理想的」だとしている。

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石炭などの化石燃料を燃やして二酸化炭素を排出することなく、地球のこれ以上の温暖化を防ぐのなら、再生可能エネルギーと共に原子力を使うのが最も環境や地球にいいことは確かだ。福島第一原発事故を受けて2022年までの原発からの脱却を進めたドイツでは、それによるCO2排出量と死亡者数の増加といった社会的費用が、メルトダウンのリスクや放射性廃棄物の処理コストを数千億円上回るものだという研究結果も出ている。世界保健機関(WHO)によれば、世界で大気汚染に関する疾病で亡くなる方の数は年間700万人に上る。

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かつてフランスの思想家ポール・ヴィリリオは、「船の発明とは難破船の発明でもある」と言った。それで言うと、クルマの発明は交通事故の発明でもあり、原発の発明は、原発事故の発明でもあるわけだ。だから仕方がない、と言いたいわけじゃない。だけれど、ぼくたちの文明を左右するようなイノヴェイションやインヴェンション(発明)が本当は人類に何をもたらしているのか、その大きな問いを考える縁(よすが)を与えてくれる言葉だ。

社会思想家の斎藤幸平さんはベストセラーとなった『人新世の「資本論」』でフランスのマルクス主義者アンドレ・ゴルツが提示した「開放的技術/閉鎖的技術」を紹介している。単純化していえば、開放的技術は人々をエンパワーするもの、閉鎖的技術はそこに人々を隷属させるものだ。これは言い換えれば、イヴァン・イリイチが著書『コンヴィヴィアリティのための道具』で示す、自立共生的(コンヴィヴィアル)な道具と、人々から自律的決定権を奪うテクノロジーとの対比でもある。

原発は明らかに、一部の人のみが理解し、操作しうるという意味で閉鎖的で人々を隷属させるテクノロジーだ。一方で、電気というエネルギーは人々をエンパワーし、あらゆる生活の領域で人々の自律性を高めてきたことも確かだろう。つまり開放/閉鎖の二項対立はそれぞれが一面的であって、現実にテクノロジーとはもっとノンバイナリーな存在としてある。だとすれば、その負の側面を抱えながら(Aの発明が必然的にAによる事故の発明にもなるのなら)、ぼくたちはいかにコンヴィヴィアリティな社会をその上に築くことができるだろうか?