2021.04.10
# 戦争

国家機密だった戦艦「大和」は、いかにしてあの戦争の象徴となったか

戦前、「大和」の存在を誰も知らない
4月12日に発売される『太平洋戦争秘史 戦士たちの遺言』(講談社ビーシー/講談社)は、著者・神立尚紀氏が四半世紀にわたって戦争を体験した当事者を取材し、「現代ビジネス」に寄稿、配信された記事のなかから、主に反響の大きかったものを選んで「紙の本」として再構成したものである。そこに掲載された記事に関連するエピソードをいくつか紹介する。
第2回は、本書第八章「『戦艦大和』特攻を『思い付きの作戦』と痛烈批判した副砲長の無念」に関連するエピソード。
――沖縄への海上特攻を命じられ、道半ばにして米軍機に撃沈された戦艦「大和」。いま、世界一の巨大戦艦として、日本の戦艦の象徴のように思われている「大和」だが、じつは、国民に対してその存在が秘匿されていた。では、「大和」特攻の悲劇は、当時どのように報じられ、また、秘匿されていた「大和」はいかにしてあの戦争の象徴となっていったのだろうか。
 

海軍は最後までその存在を明かさなかった

平成28(2016)年11月の公開以来、ロングランを続け、大きな話題となった映画『この世界の片隅に』。こうの史代が『漫画アクション』(双葉社)で平成19(2007)年から21(2009)年にかけ連載した漫画を、片渕須直監督が映画化、令和元(2019)年12月には、新たなエピソードを加えた『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が、全国で公開された。

広島に生まれ、呉に嫁いだ主人公の「すずさん」を通して、戦時下の庶民の日常、ささやかな喜び、否応なしに迫りくる戦争の恐怖、そのなかで生き抜く人々の強さを丹念に描いたこの作品は、思想信条を超えて多くの人々の共感を呼んだ。原作が素晴らしいものであったのは間違いない。同時に、片渕監督の細部にまで妥協を許さない姿勢が、原作の世界観を損なうことなく、光の当て方や見る角度次第でいくつもの色に輝く映像作品を作り上げた。

この映画のなかで、戦艦「大和」が、印象的な形で登場する。高台の畑から、夫・周作と眼下の呉軍港を見おろしたすずさんが、入港してくる巨大な軍艦に驚き、「周作さん、ありゃなんですか? 船……ですか?」と訊く。「『大和』じゃ。東洋一の軍港で生まれた、世界一の軍艦じゃ」と周作。そしてときは流れ、空襲で重傷を負い、海軍病院に入院した義父を見舞ったすずさんは、義父から声をひそめて「すずさん、『大和』が沈没したげな。雪隠詰めにされて、敵陣に躍り出てしもうた」と聞かされる。

「大和」の生まれ故郷で、母港でもあった呉では、おそらくそんな会話が交わされていたのだろう。軍人、軍属の多かった土地柄からも、「大和」は、それなりに知られ、親しまれる存在であったに違いない。

――だが、それはあくまで、関係者や土地の人のなかでの「公然の秘密」で、海軍は、国民一般に対しては最後まで「大和」の存在を明かさなかった。

昭和16年10月30日、宿毛沖で全力公試運転中の「大和」

東京帝国大学文学部から海軍兵科予備学生を志願した作家・阿川弘之氏の『軍艦長門の生涯』には、海軍に入隊したとき、教官から「日本の戦艦の名を知っているだけ挙げてみよ」と問われ、

「『陸奥』『長門』『扶桑』『山城』『伊勢』『日向』『金剛』『比叡』『榛名』『霧島』」

10隻の名を挙げると、教官が

「よし、それでよし」

そこで一人の学生が、「教官、未だあります」と手を上げ、

「『大和』『武蔵』」

と言うと、教官がニヤッとして、

「そんなものは知らんでよろしい」

と答えたエピソードが紹介されている。

卑近な例だが、明治38(1905)年、大阪生まれ、終戦時40歳の「軍国の母」世代だった筆者の祖母は、「長門」「陸奥」が日本一の戦艦だったと、昭和51(1976)年に亡くなるまで信じ込んでいた。小学生だった孫の私が、本を読んだ知識で、

「おばあちゃん、違うで、一番は『大和』『武蔵』やで」

と言っても、

「そんなん、知らん」

と、一蹴されるのが常だった。大正年間に完成した「長門」「陸奥」は、実際、「大和」「武蔵」が現れるまでは世界最強クラスの戦艦で、戦争が始まる前から「日本の誇り」として、新聞、雑誌から絵葉書まで、さまざまな形で紹介され、広く国民に親しまれていたのだ。

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