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祝! 50周年── ポール・スミスの軌跡を辿る【後編】

英国のファッション業界で誰よりも愛されているサー・ポール・スミスが、この道50周年を迎えた。その節目にあたり、UK版『GQ』のスタイル&グルーミング・ディレクターがインタビュー、半世紀にわたる軌跡を10年ごとにふり返った。
祝! 50周年── ポール・スミスの軌跡を辿る

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ポール・スミス。ロンドンのフローラルストリートの上階オフィスにて。1989年。

Credit: Flo Smith / Alamy Stock Photo

1990s

初めての個展がロンドンのデザイン・ミュージアムで開かれ、世界各国の学童が興奮に沸いた。

ぼくの最初の個展の「True Brit」が1995年にデザイン・ミュージアムで開かれ、学校や教育機関からの訪問人数の記録を更新しました。ありとあらゆる書物や展覧会にぼくが服飾業界人らしからぬ興味をもってきたことの成果だと思います。ファッション関係の展覧会は衣服ばかりが並ぶものになりがちですが、デザイン・ミュージアムでの2度目の個展の「Hello, My Name Is Paul Smith」と最初の「True Brit」はどちらも、「ほら、こういう仕組みになっているんだよ」というように内幕を見せるかたちになっていた点がユニークでした。

たとえば、ベルトコンベアーを鉄道模型のレールに見立てて、アイデアのひらめきからパターンの作成、サンプルの製作、ファッション・ショーでの展示に至るまでの全工程を見せるようにしたのですが、この独創的な試みが学童たちの心をつかんだようでした。

ロサンゼルスのメルローズ・アヴェニューにある〝ピンクの靴箱のような〟ショップ。

2000s

ファッション業界人として最も飛躍の著しかった10年間。2000年にはナイトに叙せられ、2005年にはまばゆいピンクのショップをLAのメルローズ・アヴェニューに新規開店して、(たぶん)世界一インスタ映えするブティックとなった。

2000年は、ポーリーンと暮らしはじめた1967年から33年目の年でした。夫婦として籍を入れてはいなかったのですが、もしよければと彼女が言ってくれたので、結婚式の日取りを決めました。それからしばらくして、ガスの請求書やらアメリカン・エキスプレスの利用明細やらの郵便物をスタッフに預けたことがあったのですが、そんなとき、「この手紙は読んだ方がいいですよ。エリザベス女王からです。あなたをナイトにしたいそうです」と言われたんですね。いやはや、嬉しかったですね。けれど、その後で別の女性スタッフが「日本への出張などで予定がいっぱいですから、日取りの調整が必要になりそうです」と言い出しました。それで、彼女がバッキンガム宮殿に電話をかけてくれたんですが、受話器を置いてから彼女はこう言ったんです。「驚かないでくださいね。あなたは11時にナイトに叙せられ、同じ日の午後4時に結婚します」と。そんなわけで、その日はとても忙しい1日になりました。ポーリーンはその日の午後にレディの称号を得て、レディ・スミスになったんです。

それから何年かして、ロサンゼルスに出店を計画していたとき、メルローズ・アヴェニューに木造でとんがり屋根の物件を見つけました。さえない建物だったけど、手の届く価格帯だった。なにせメルローズ・アヴェニューときたら何マイルも続くような目抜き通りです。ここで際立つにはエッフェル塔でも建てるしかない、といった感じでしたが、ぼくたちは地主と一緒にあのひどい物件を改装することにして、ピンク色の靴箱のような外観に仕立てました。おかげで、『フォーブス』のカリフォルニア名所ガイドみたいな記事ではハリウッドの看板よりも上位のスポットという扱いになりました。

1979年のパリ・ファッション・ウィークで、ポール・スミスが初めて行ったランウェイショー。スミスは1976年にホテルの一室でコレクションを披露してから、何度かファッション・ショーを実施していた。

2010s

ポール・スミスというブランドの人気がセレブリティのサークルに広がっていく。2019年にはソウル歌手ジョン・レジェンドと共にホスト役を務めるディナー・パーティーをLAで開催するまでになった。

つながりの輪というのはありがたいもので、ロサンゼルス在住の英国人俳優のゲイリー・オールドマンや、アフリカ系アメリカ人のソウル歌手ジョン・レジェンドとのディナー・パーティーをLAのシャトー・マーモント・ホテルで開くことができました。大勢来てくれた俳優やミュージシャンは、みんなポール・スミスの店で服を買ってくれる人たちで、義理や体面なんてものとはてんで無縁の集まりでした。そういえばハリソン・フォードも、うちのビスポークのスーツを贔屓にしてくれています。セレブリティに取り入ってショーを派手派手しく飾りたてようだなんて考えはぼくたちにはありません。もっと自然発生的なつながりばかりで、デヴィッド・ボウイレッド・ツェッペリンの服をあつらえていた頃からそれは少しも変わっていません。エリック・クラプトンやジミー・ペイジの服作りをしていた18歳のあの頃とおなじです。

自分で言うのもなんですが、ぼくは気取ったところのない、話しかけやすい男です。いつでも来る者は拒まずなんです。

パリのAW20のパックステージにて。2020年1月19日。

Sonny Photos

2020s

50周年を迎える今年、ショーとディナーの祝宴をパリで開催。ポール・スミス基金の構想も明らかにした。

50周年のショーとディナーを6月ではなく1月に開催したのが、結果としては正解でした。6月になんかできるわけがなかったのですからね。まさしく偶然の賜物でした。「あんなに心から楽しめるイベントには、あなたのショーとディナー以来出会えていません」なんていうテキストメッセージや電子メールが次々に届きました。時期的に(コロナ禍での)ロックダウンにそのまま突入するくらいの頃でしたからね。ショーでは過去のファッションショーや広告キャンペーンを2、3分のプロジェクション映像に仕立ててランウェイの奥で上映しました。

ディナーに集まったのもほんとうに気心の知れた人たちばかりで、英国人俳優のビル・ナイや米国人女優のスーザン・サランドン、それからジミー・ペイジも来ていました。みんな長年ポール・スミスを贔屓にしてくれている人たちで、他人行儀なところのないエモーショナルなつながりが会場にみなぎっているのがよかったです。世界中からセレブリティをかき集めて全員が常連客みたいなミスリードの仕込みをするイベントとは違いましたからね。

さいきん、世界はめまぐるしいだけでひどく薄っぺらい空間になってしまったように感じています。ポール・スミスはNo.1には一度もなったことのないブランドですが、ずっと古びることなくやってこられました。ポール・スミスという名前の男がいて、実務がとことん好きな人物で、いまだに筆頭株主だし、会社の切り盛りもしていて、毎日働きに出かけていく。ぼくは仕事を愛しているし、墓石には、そうだな、「継続は力なりを生きざまで示し、誰からも好かれた男」なんて言葉を刻んでもらうのでしょうか。継続こそがぼくの最も誇りとするところです。古びることなしに続けていくこと。イタリアやフランスの小さなブティックが25年後や30年後のいまでもポール・スミスを仕入れてくれています。すごいことだと思います。

毎朝5時か5時半には泳いでいます。21歳の時から同じ女性の伴侶でいる境遇にも恵まれています。そして会社を自分の手で保有していて、借金漬けになったことはないし、ロックダウンで多くのブランドが潰れるなかでもどうにか事業を続けてこられました。ここ10年くらいのトレンドに、ロゴをでかでかとあしらうというものがありますが、そういうもので3年くらいは稼げるのかもしれませんが、次の世代からは「これってお姉ちゃん(あるいはお兄ちゃんやお父さん)が着てたやつだよね。いまさら着ようとは思わないな」なんて言われることになるでしょう。そういうかたちでの自己主張にかまけることより、よい服を適正な価格で売ることです。それが結局は成功につながると思っています。

Paul Smithʼs Foundation(ポール・スミス財団)というものを10年ほど前に起ち上げました。ずっと有名無実のようなものでしたが、今年の9月からついに動きはじめます。クリエイティブな人々に仕事の進め方や、ひらめきを引き寄せる方法のアドバイスをする組織になるでしょう。

ぼくのオフィスにはこれまで長年、ファッション・デザイナーになりたいという人が訪ねてきました。狭き門に殺到するそういう志望者たちを、いいかたちで導きたい、と考えています。ファッション・デザイナーという職業から神秘のベールをぬぐい去り、その実像をわかりやすく示すこと、そのことこそが、長年、ぼくのやってきたことなのですから。

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Words テオ・ヴァン・デン・ブロウク Teo van den Broeke
Translation 待兼音二郎 Ottogiro Machikane