興福寺「鐘楼」の礎石などを確認 創建当初の規模や構造判明 奈文研

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興福寺境内の発掘調査で見つかった鐘楼の遺構。奥は中金堂=奈良市で2020年9月24日、山田尚弘撮影
興福寺境内の発掘調査で見つかった鐘楼の遺構。奥は中金堂=奈良市で2020年9月24日、山田尚弘撮影

 奈良文化財研究所(奈文研)は25日、興福寺(奈良市)境内の発掘調査で、8世紀前半とみられる「鐘楼」の礎石や土台部分の基壇を確認し、創建当初の規模や構造が判明したと発表した。奈良時代の鐘楼としては大安寺、薬師寺に次ぐ大きさで、下層が末広がりになった「袴腰(はかまごし)」と呼ばれる構造は、最古の例となる可能性がある。現在の興福寺は平城遷都に伴う710年、藤原不比等(659~720年)が建立。今回明らかになった鐘楼の規模や構造からも藤原氏の権勢の大きさがうかがえる。

 鐘楼は2階部分に釣り鐘があり、僧侶が法要の時間などを知らせるために鳴らしていた。興福寺では中世以降、平氏による南都焼き打ち(1180年)などで過去8回火災に遭い、その都度再建されてきたが、1717年の焼失後は再建されなかった。過去の調査や中世の絵図などからおおよその規模や構造が分かっていたが、今回、境内整備事業の一環で再建を目指すにあたり、奈文研が7月から中金堂の北西約345平方メートルを調査し…

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