フェラーリには36人のテストドライバーがいるという。その中のひとり、ルイージは最初メカニックとして同社に入ったが、狙っていたのはテスト部門。フェラーリのテストドライバー採用は社員に優先権があって、リタイアなどで欠員が出るとまず社内に告知される。
ルイージはこの告知に手を挙げた。ドライビング能力、適性検査の結果、昇格したのはハタチのとき。今、40歳だからキャリアは20年ということになる。ベテランだ。出身はナポリで、ナポリは大好きだけれどマラネロに骨を埋めるつもりという。15歳の息子はマラネロ生まれのマラネロ育ち。家庭を築いたことで跳ね馬の地が彼の第2の故郷となったそうだ。
ちなみにルイージのひとり息子の名前はなんとマリオ! 父はフェラーリ・ドライバー、息子は父が言うところのガリ勉でお医者さんを目指しているという。「スーパー親子ね」と、言ったら、彼が笑い声をたてた。この時ばかりではない。
ルイージはたくさん笑う。その笑い声がとてもよく聞こえることに驚いた。ローマの静粛性と、くわえて言えば乗り心地の良さを物語る出来事だった。もちろん話す時も大声を出すような必要はない。普通に話して普通に聞こえるのだ。マスクをしているというのに。
“フェラーリ”を語れることの重要性
マーケティング部責任者のインタビューで「GTのキャラクターの鍵としてロングツーリングに相応しいサウンドは重要な開発テーマのひとつだった」と、教えられたが、彼の言わんとすることもこのときわかったような気がする。
通常走行では“バリトンのコーラス”みたいな音を奏でる。心地よいBGM。3000rpmを超えたあたりですらサウンドを官能的と感じなかったのは、冗談をいっぱい言い合い、いやというほど笑い、景色に感心したり葡萄畑の前で自撮りを楽しんだりしたせいだろうか。これぞ、「嗚呼、グランデツーリング」。
彼はEV(電気自動車)にあまり興味がないそうで内燃機関派、でもハイブリッドの加速感は好きという。同僚にもおなじことを言う人が多いそうだ。フェラーリでは599フィオラーノを最後に、MTをオプションから外したが、顧客からのリクエストがないことにくわえ、現在のDCTは純粋マニュアルの楽しみを超えるものと捉えているという。
「ただし、体が操作を忘れないように休みの日によくマニュアルのクルマに乗っているよ」
マネッティーノはスポーツに合わせてある。ローマを楽しみ、そのキャラクターを味わうには、このポジションが適していると思うから。ペダル操作は右足のみ。サーキットでは両足で操作するのがフェラーリ・テストドライバー流儀という。
流儀で言えば、もうひとつ印象的だったのは、彼が“言葉を持っていること”。実は“バリトンのコーラス“という表現も彼のクチから発せられたものだった。これまで多くの自動車製作者に出会ったが、モデラーとテストドライバーは話すことが苦手な人々が多かった。前者は手と目がコトバとなり、後者はずばり寡黙。
でも彼は違う。
「テストドライバーは技術のセオリーと数値を超えたところにある乗り手の受けた感覚を、エンジニアに自分の言葉で説明することが求められる。ボキャブラリーを豊富にすること、これもフェラーリの流儀だと思う。だからこそ、フェラーリは経験のあるテストドライバーの雇用を好まない。イチからフェラーリのなかで育つことを重要視する。他車と比較することより、“フェラーリ”を語れる人間を育てることを大切にしているんだと思う」
彼はテストドライバーであること、フェラーリで働くことをとても誇りに思っている。そりゃ、そうだろうなぁ。1番の誇りはなに?と尋ねた時の答えは、しかし意外なものだった。
「社員の子供が高校に進むと教科書代を払ってくれるんだよ」
イタリアは、授業料こそ無料だが、理科系と文化系に分かれる高校の教科書代は個人負担。値段の高さは有名だ。しかしフェラーリのテストドライバーが平均よりずっといいサラリーを貰っていることは想像にた易い。つまり彼は家計を助けてくれることを言っているのではない。
たとえばスーパーマーケットで使う買い物券ではなく、本代を負担してくれる会社で働くのを誇りに思っているのだ。
「ウチの会社は社員の子供が高等教育を受けることを奨励する。学ぶこと、ヒトして前進することを大切にしているんだ。それと健康。スポーツジム代も会社持ち」
何度も出会ってみたい驚き
話に夢中になっているうちに約束の終了時間が迫ってきた。前述の通りCovid-19 の影響で非常に厳密な安全対策がとられている。時間超過というわけにはいかない。なにを聞いても嫌な顔をしないことで逆に頼むことが憚れていたが、思い切ってスロットルを全開にすることは可能か?と、切り出してみた。
彼がローマの鼻先を向けたのは畑のなかの1本道。走るクルマもヒトもまったく見当たらない場所。長いストレートではないが、「ここでのみ、テストドライバーに限って」という条件で地元警察との話し合いが付いている模様。
さっきまで笑い転げていたルイージは、さっきまでとまったく変わらぬ彼のままアクセルを踏み込んだ。
一方変わったのはローマの方だ。サウンドが豹変した。一瞬の出来事だったが、4000rpmから限界の7200rpmまで“吠える”では言い尽くせないほど息継ぎなしに吠える、吠える。単音ではなく和音みたいな何本もの太い低音の重なりが、音階というよりボリュームとテンポを変えながら、コクピットの中に竜巻のように渦巻いた。その変わりぶりには驚いたけれど、それは何度も出会ってみたい驚きで、太く伸びる加速感も同様だった。ローマは素晴らしい軀を持っていた。
ちなみ公式最高速度は320km/h以上、0-100km/h加速は3.4秒という強烈な速さを誇る。
フェラーリ・ローマはエレガントな着衣を脱ぎ捨てた。イブニングドレスのジッパーを下ろしたのはルイージ・レッテラ。心優しいテストドライバー。男のなかの男である。
文・松本葉