政権中枢に接近する中曽根派
本書が描くのは、1974年から77年までの政局で、私が仲間とともに立ち上げた新自由クラブにも触れています。そこで当時の話として、当事者の視点から私たちが自民党を離党した経緯などについて述べたいと思います。
父・河野一郎が率いた派閥の春秋会は、鉄の結束と言われるほど固い絆で結ばれたグループでした。しかし一郎が1965年に大動脈瘤破裂による出血で亡くなると、翌年には二派に分裂してしまいます。一つは、重政誠之(しげまさ・せいし)さん、森清さんら、根っから河野一郎を慕っていた一派。後継を選ばず急死した父の後、春秋会の会長に選ばれたのは森さんでした。
もう一つは、中曽根康弘さんを中心とする一派です。中曽根さんは、改進党のリーダー的存在だった北村徳太郎さんと行動をともにしており、1955年の保守合同を機に、北村さんとともに春秋会に入っていました。
河野派直系の森さんと、途中参加の中曽根さんとの間には距離があり、中曽根さんは1966年12月に稲葉修さん、山中貞則さんらと春秋会42人のうちの24人を連れて独立、「新政同志会」を結成し、自民党最年少の48歳で派閥の領袖になります。
翌年1月末、私が政界に入ると、森派(春秋会)、中曽根派(新政同志会)の両者から誘われました。息子を引っ張り込めば、河野派の直系を名乗ることができると考えたからでしょう。しかし私は「どちらにも行きません」と無派閥を宣言し、当選1回生の若輩者ながら両者の再合流のために動いていました。
ところが、その矢先の1968年6月9日、なんと森清さんが急死してしまったのです。腎性高血圧の治療を受けていたところ、尿毒症を併発したとのことでした。まだ52歳の若さでした。
森さんの死は痛恨のきわみでした。再合流の話は流れ、森派に残っていた人もかなりの数が中曽根派に移りました。
私は相変わらず無派閥でしたが、先に中曽根派入りしていた田川誠一さんから「派閥に入ると党の情報も入ってくるから」と誘われ、再合流を主張していた手前、仕方がないと中曽根派に入りました。田川さんは、私の母の兄の息子、つまり従兄弟で、よく面倒を見てもらいました。
そんな田川さんは私を誘っておきながら、中曽根さんとは考えが合わず、私が中曽根派入りしてまもなく、派閥を出ていってしまうのですが。