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カントールの対角線論法は 間違いではないですか?
T yoshio
(対角線論法、反射反映、自己言及の深化)
矛盾⊥の持つ爆発的なパワー
を境界付け制御しようとする歴史
⊥の周縁
知覚により、他から識別できる存在に名前を付ける発明。
a
イメージ操作のセカイを習得。例
aのイメージが残っているのにもはやaは喪失され不存在。否定の発見
¬a
(のちに矛盾との双対定義に発展
a⊃⊥
即ち¬a
矛盾の発見)
現実世界には存在しないが、イメージのセカイで初めて観念できるようになった。妄想上は両立する可能性があったが改めて訣別する。
aかつ¬a 。存在矛盾。
a ⊃¬a かつ
¬a ⊃a
即ちa ≡¬a 。コトバ名辞矛盾。
直接的自己言及パラドックス)
この文は偽である。
(この文に「a」という名を付けてみれば、aは「aは偽である」と言っている。
a: a⊃⊥ 。
名前を排除、間接的自己言及)
クワイン化: ある表現の引用を先立たせ埋め込む操作
「のクワイン化は偽だ」のクワイン化は偽だ。
語用論、言明版)
私のこの言明は間違いだ。(うそパラ
クレタ人は皆嘘つきだ。
証明論、ゲーデル版)
この文は証明可能ではない。
「のクワイン化は証明可能ではない」のクワイン化は証明可能ではない。
ラッセルのパラドックス1:(内包構成版
自分自身を含まない集合、を集めて行った集合は、自分自身を含むか?
床屋の私はこの村の、自分で髭を剃らない人凡ての髭を剃り、自分で剃る人の髭は剃らない。
ラッセルのパラ2:(分割版
凡ゆる集合を集めた極大集合を用意。
自分自身を含まない集合の現れる領域と
自分自身を含む集合の現れる領域と
に線引き分割する。(ーー自分自身を名札としているようなもの
前者の領域ではその集合をpickUpし、後者の領域ではその集合を無視し、新しい集合invDを作る(反転収集)。invDはどの領域に収まるか?
カントールのパラドックス:
「一般対角線論法を認めるならば、
凡ゆる集合を集めた集合よりも大きな集合が存在する:」
凡ゆる集合を集めた極大集合を用意する。
その要素たる凡ての各集合に1:1 index名を付ける。
自分の名前を要素としない集合の名前をpickUp収集し、
自分の名前を要素とする集合の名前は無視する
操作を完了して新しい?集合invDを作る。
invDは最初の極大集合の要素に現れるか?
無限の数学 カントールの対角線論法破れたり!!!「後出し」は実数の専売特許にあらず
T yoshio
ーーカントールは頭おかしいと批判され不遇だったらしいが。。それを受け入れてみれば新しい数学がそこから始まった
C派から発展した派生理論で反C派を叩いてもしょうがないし(論点先取り論法
反C派から発展した派生理論でC派を叩いてもしょうがないし(〃
→根本的に遡って、数学を単純にする議論が必要
ーーπは(とか√2 とか、、)は有名な
無理数、実数の1つで
無限小数で「表せる」
ことは世間一般に受け容れられている。
それでは
この表記を小数点を軸に鏡像変換
した表記
「……56295141.3」
これが
「表わしている」「数」
は「確定可能な」「実在する」数の1つと言えるのだろうか?
ーー肯定否定どっちの立場もあり得るような気がする
(数の表記(数字)を弄るような学問は数学なのか?)
ゲーデルは論理式の表記を数字に置換えて論理学を数学化したことを想起
⇔論理学に対角化公理無しに隠伏的に対角線論法を持ち込んだ
ウクライナにロシアの差し押さえ資産を与える方法、賠償請求に基づく融資
T yoshio
……その大部分は欧州にあるため資産没収には法的問題を抱えてる。従って現実的な代替案はシンジケート方式の賠償ローンになるだろう。このスキームは
……「ウクライナがロシアに対する賠償請求を同盟国のシンジケートに確約し、その見返りとして融資を受ける」という内容だ。もしロシアが支払いを拒否すれば同盟国は差し押さえた資産を融資の返済に充てることができ、これは資産没収よりも法的に強固だ”
ーー予め将来の和平合意に基づく未現実の賠償請求権を担保(債権質)に入れ、つまり現在において実質的に前借り現金化する、ということは、、、
戦債債務返済を確実にするために、、
「勝利に向かった戦争継続」を選ぶしかなくなる。
当然だが
⇒柔軟な和平交渉の妨げとなる。
戦争遂行させられる債務奴隷に近づいて行く。
ただし実際上、、
ーーロシアから賠償金が支払われない等によりウクライナが融資を弁済できない場合、
アメリカ等は、融資を回収するため、(債権回収屋のように)
観念的な「賠償金請求権」を譲受け、相殺回収し、他方、
凍結差押えしてあるロシアの資産を売却して「賠償金請求権」の債務弁済に充当する
⇒ドル覇権国のくせにご無体な「資産没収しやがった」と界隈で謗られずに済む
上司からの「嫌な仕事」が激減する、挨拶に付け足す“ひと言”とは? - ニュースな本
T yoshio
(お仕事関係の人間関係においても「嫌われる勇気」が成立つか?)
……してもしなくても労力はさほど変わりません。しかし、された側の印象は180度異なります。まったく「いいね!」してくれない人のことより、してくれる人のほうを好意的に捉えます。
挨拶は好印象を与えるものであり、コミュニケーションのきっかけでもあるので、それを活かして、「今日はこの仕事をします」とか「いま、何の案件をしています」とか、現状報告をしれっと続けてみてください。それだけで、本当のあなたへの上司の理解は深まります。
何をしているのかわからない部下から、何をしているのかわかる部下にランクアップするのです。
……たったこれだけのことで、特別な報連相などしなくても、上司はあなたの状況を把握できます。他の部下のことはわからなくても、あなたの仕事量については、わかったような気がしてきます。この「わかったような」がポイントです。
すると、わざわざあなたの仕事を増やそうとは思わないでしょう。
挨拶一般が苦手な場合の自分から、または個別に苦手な上司に対して)
ーー大き目の月間週間ホワイトボードに、取組中の案件たちの進捗状況を貼り出しておく、とか
たとえば今日起きて、あなたが一番最初に会話した人は「誰」だったのか…哲学の大問題、「自己と他者」の境界線にある「意外な落とし穴」
T yoshio
……私たちが「他者」に出会うとき、ある役割を担った、言いかえれば「仮面」をかぶった「他者」に出会っている。「他者」もまた「仮面」をかぶった「私」に出会っている。そこで「私」は、あるいは「他者」は、ほんとうに「他者」に出会っているのであろうか。ただその表面を見ているだけではないのだろうか。
……類推を通して、あるいは感情移入を通して、そこに内部性をもった「他者」を想定し、そこに迫ることができると言うことができるかもしれない。しかしそこでもなお、私たちは自己の感情や思いを通してとらえられた「他者」、つまり自己の影を見ているだけではないのか。言わば擬似自己とでも言うべきものを立てただけではないのか…
ーー
……その絶対の他は、私を否定するものであるだけでなく、「自己自身を表現する」ものでもあると言う。「絶対の他」は──「絶対の汝」として──私に「呼びかける」ものでもある──そのように「汝」という言い方がされるときには、「他」は単なる「他」ではなく、私に対して自己を「表現する」もの、「呼びかける」ものであるという意味が込められている──。
つまり汝は、絶対の断絶のなかにありながら、私に対して、汝に応答するように、あるいは対話するように語りかける存在でもある。私は、このように私に対して呼びかけ、応答を求める汝を人格として認める。それに対して汝もまた私を人格として認める。つまり相手を人格として承認することが相互的に成立する。それを西田は「人格的行為の反響」…
(反射反映と再帰、=繰込み映込み)
鏡のセカイ:
ーー自分自身へのReflectionとRecursion
ーー他者へのReflectionとRecursion
ーー自分や他者との関係RelationへのReflectionと Recursion
ーー 一般的汎用的すぎる理論/主体や 存在/対象は、自分自身を対象として取扱うことができる。そこにRが生じる: 対角線論法、世間に謂うところのブーメラン状況を観てとれる。そういう看取行動により実際ますますブーメランになる。
ーー反射と再帰は何処にでもあるありふれた現象だが、、
ネストが浅いと目立たず気づかれない
;動物、赤ちゃん
ネストが深いと複雑予測困難な「一個」のような実在様なものになり、やはり理論的な考察の対象になりにくくなる。
;個人とか実存、、
実無限と可能無限
T yoshio
……そこで、こんどはそれらの個体について、「犬でないもの」の集合を作ってみよう。そうすると、先ほど作られた犬の集合の要素ではない個体を集めて「犬ではないものの集合」を作ることができる。面白いことに「犬の集合」は犬ではないので「犬ではないものの集合」の要素となる。この場合も「犬ではないものの集合」という新しい個体が出現する。したがって、この個体にも「犬ではない」という述語が適用され、「犬ではないものの集合」は「犬ではない」ことがわかる。これは、「犬の集合」の場合と違って「犬ではないものの集合」自身がそれを規定する述語である「犬ではないもの」を充足する。しかし、その生成過程をみるとわかるように「犬ではないものの集合」それ自体はその要素としては含まれていない。しかしながら、この集合は自分自身を要素としては含んでいないにもかかわらず「犬ではないもの」という述語を充足している。
これが、集合の定義と内包公理の微妙なずれの正体である。集合の世界を構成的に調べると、自分自身を要素として含まないにもかかわらず、自分を規定する述語を自分自身が充足してしまうという事例が発生することがわかる。
しかし、この場合にも個体は述語を充足するか充足しないかのどちらかであるという排中律は成立している。つまり、「犬の集合」と「犬でないものの集合」とその他の要素的な個体からなる世界では、述語「犬である」も述語「犬ではない」も必ず真か偽の値をとる。
……ただし、集合の世界全体を考えた時にはこれでは十分ではない。つまり「犬でないものの集合」という新しい「犬でないもの」という個体がある限りは、暫定的な「犬でないものの集合」は内包的定義による「犬でないものの集合」にはなりえない。そこで、暫定的な「犬でないものの集合」をふくむ新しい「犬でないもの」を集めた集合を考えなければならない。そこでそのような集合を作ってみると、その新しい集合自身が「犬でないもの」という述語を充足してしまう。したがって、この操作を無限に繰り返しても「犬でないもの」すべてを集めた集合を作ることはできないのだ。これを無理にそのような集合があると考えるとラッセルのパラドックスが発生してしまう。
NORMAL
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