「子どものいない社会」が理想になっている…養老孟司「日本の少子化が止まらない本当の理由」
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感慨深い記事ですね。
私自身、子ども自体には価値がないとは決して思いません。しかしながら、現代の都会にとっては価値がないという雰囲気はあるのかもしれません。
子どもに関して少しばかり持論を述べさせていただきます。
計算式のように子育てには明確な答えはありません。
記事にもあるように、子どもへの投資をしても先行きが不透明かもしれませんが、子育てから大人が学ぶことは多くあります。
※記事《子どもの先行きなど、誰もわからないからです。子どもにどれだけの元手をかけたらいいかなんて計算できません。さんざんお金をかけても、ドラ息子になるかもしれない。現代社会では、そういう先が読めないものには、利口な人は投資しません。》
子どもたちは大人の私たちには理解できない感情や感覚で日々を過ごしています。
上手く言葉にできない感情を怒ったりや泣いたりして表現し、周りにどう思われるかにも目もくれず、今、自分がやりたいことを無我夢中で全力でやっています。
自分のフルスロットルのスピードで走って、頭をぶつけたり、転んだりしながら、痛みとともに学んでいます。
大人だったら決してしないことを子どもは当たり前のようにやってしまいます。
大人へ成長するごとにそれは薄まっていきますが、2人の子どもを育てる父親として、日々の姿を見ていると我が子を心から尊敬しています。
大人になってから、「子どもの頃に戻りたいなぁ。」と思ったことのある方は多いのではないでしょうか。
それはあなたが無我夢中で子ども時代を生きていたからではないのでしょうか。
生まれてすぐに大人になってくれれば社会の生産性は上がるかもしれません。
しかしながら、我々人類が動物と違った永い年月をかけて子どもから大人への成長するのには何か意味があると思うのです。
子どもを育てることが自分の成長にも繋がる価値があったり、子どもの頃の経験が大人になってから、社会にとって素晴らしいサービスを生むきっかけになったり、子どもから大人になるプロセスにはとてつもない価値があります。
「子どもを、社会的・経済的価値がわからないもの」として捉えるのではなく「子どもをいかにして価値のある存在にしていく」かが、我々、社会を築いていく大人にとっての責任と使命なのではないでしょうか。
注目のコメント
> 都会人にとっては、幼児期とは「やむを得ないもの」です。はっきり言えば、必要悪になっています。>
子どもは次の行動が読めない。娘が突然不機嫌になったり、かと思うとにこやかに笑ったり。途方にくれたことを思い出します。でもだから子どもなのだしだから子どもは素晴らしいのでしょうね。
他者は予測がつかない。LINEの返信が来ないこともある。でもだからこそ他者なのであり、だから他者と生きることは楽しいと考えたい。他者と生きることはそういうことなので。記事で語られる都市人の反対側にいる方々へのメッセージとして、離島経済新聞社のインタビューでは「島がホントで都市がヘン」とお話しくださいました。人の暮らしを便利にするはずの都市化は、結果として、子は宝という原初的な価値観を人々から(知らず知らずのうちに)奪ってきました。都市に暮らす人にとっては耳の痛い話かもしれませんが、人間はそもそも自然の一部です。養老先生の語られる危機感は至極真っ当であり、まだまだ広がってほしいと願います。
https://ritokei.com/voice/26569示唆深いですね。ウンコも、婚活市場では「ない」ことになってますしね。いざとなったらその人のウンコを食べられるかで結婚相手を選べばいいと思ってます。
「手入れ」といえば、子供のうんこ付きのオムツの始末、うんこが付いたお尻拭き、お漏らししたズボンとパンツの洗浄は間違いなく重労働ですし子育てに必須の課程ですが、経済成長した都市では社会的経済的価値基準によって「ない」ものと(誰の意図もなしに、都市そのものの本質によって)判断され、家庭でのそれらに経済的評価はされないですし、保育士の給料も介護士の給料も低いままです。保育士の給料は、乳幼児の教育分しか評価されておらず、上述の重労働分は算定外になっている気がします。
寝たきりの方や意思疎通が困難な方の介護も含め、都心の綺麗に整えられた社会の外側には、霞ヶ関の官僚や政治家ふくめ多くの人が目を背けている現実があり、そういった「経済的に」「ないもの」とされている事柄に携わる人の労働への経済的評価も連動して低く見積もられている現状を考える必要があると思います。少子高齢化に伴う諸問題や低賃金労働が蔓延している現状を考えるにあたっては。
つまり、空き地のモグラや樹齢数百年の木に目を向ける意識が、今後を生きる人間と、制度や社会の設計者には必要なのだと思います。