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経産省発の300ページにおよぶ“新産業構造ビジョン”を1分で理解[インフォグラフィック]
Sato Yuji
ページ数でボリュームを見積もろうとするから膨大な内容に見える。
そもそも、なぜページ数が規模感を与えるように思うかを考えるに、きっと、時間というリニアなリソースの中で、内容説明や理解が行われるからなのだろう。
しかし、実際の内容は、金剛界曼荼羅のように、フラクタルな入れ子構造になっている。
さすれば、フラクタル測度にも似て、文書の外形的分量が2倍になっても全体の理解に必要なリソースは、たとえばルート2倍(フラクタル次元が2の場合)とか、線形にはならないと予想する。
実際、多くのプレゼンテーションでも、一番大事な幹のページだけを示し、枝葉のページは飛ばして、質疑でフォローする。
さすれば、今回のように、主権者である国民向けに、キモを1分で理解させようとする試みは面白いが、願わくば、曼陀羅構造で枝葉に入れるような形式の資料の提示があると面白い。
人がその興味のある分野に、コッホ曲線やペアノ曲線の生成過程のように、どんどん深掘りできるような構成での資料提示が良いと思う。
無理かな。
「男が言い寄るのは性犯罪ではない」セクハラ告発運動の行き過ぎに警鐘 女優カトリーヌ・ドヌーブらフランス人女性100人が連名寄稿
Sato Yuji
カトリーヌ・ドヌーブさんの意見には同意するが、当面、どうにもならないような気がする。
今の時代は、外形的なエビデンスが全てだからだ。
ネット時代になって、なおさら、表面に現れたものが全てになってしまった。
「Je te veux」の男声版と女声版の歌詞を見ても分かるが、男の方が「お前が欲しい」というのに対して、女の方がそれを受け入れる形になっている。
女の方が、自分の欲求を満たすために積極的に男に言い寄ることを可能にする歌詞ではない。女の欲求は、表立っては無いことになっていたからだろうか。
http://www.geocities.jp/lune_monogatari/jeteveux.html
いずれ、恋愛において男性が主導権を取ることへの女性の期待は現代でもあるはずだ。
しかし、今の時代は、男性が、女性が言い寄れる相手かを「忖度」しないと、性犯罪になってしまう。
ぶっちゃけ、女性の生き霊が夜な夜な愛されにやってきて寝苦しい思いをしたり、また、別の女性の守護霊が私に恋愛感情を掻き立てようとしたりなど、非常に苦しい思いをしたことが、私にはある。
でも、そのような、五感で確認できない相手の心を感じ、それに基づいて行動を起こしたりすることには慎重でなければ、社会的には理解されないような、不適切な行動になりかねないだろうことも理解する。
女性に深く同情し、その気持ちを大事にし、感じ取ろうとした結果、非常に敏感になった私でも、相手の心理を客観的に検証する合理的手段が原理的には存在しない以上、もしも何かの行き違いで性的行為を強要したかのような論を立てられたら、反証する手段もない。
唯物論というか、行き過ぎた科学主義・客観主義が、人の社会を生きにくくし、ネットがそれを加速している。
仕事で自己実現できそうにない凡人は、いったい何を仕事に求めるべきなのか
Sato Yuji
家事・母の介護・仕事・子育ての負担が全部、私1人に掛かっている中、さらに自分の勉強を続けようと思うと、橘玲さんのいう幸福のために仕事をする余裕なんてない。
幸福よりも、カントが言う義務のために仕事をしている感がある。
「何が善か?」の価値感覚に基づいて、米を研いだり、買い物したり、怠け者のガキどもを怒ったり、布団から抜け出して出勤したりしている。
「何が善か?」なんて、理論理性で判断できるはずもないから、ネット検索でもAIでもわかるわけもない。
冷静に受けとめても辛い現在の自分の環境の中でも、神と、魂の不死と、欲に流されずに善をなせる自由との3つ(「実践理性の要請」と言うらしい。)を、当然のようにみなして必要な行動、善なる行動に移れる自分が居る。
フランクルが、アウシュビッツの囚人たちに語っていたように、自分の人生に何を求めるかではなく、人生があなたに何を求めているのかと問うべきではなかろうか?
仕事に何を求めるかではなく、人生が課したあなたの仕事は何かと問うべきではなかろうか?
人間は誰でも頭がよい。大評判になった「奇跡の授業」
Sato Yuji
内田先生は、左翼の視点から見たら世界がどう見えるかは、学生時代のご経験から、十分ご存知だろう。
その上で、資本主義の視点、右翼の視点、フランス語話者の視点など、多様な視点で世界を眺める術をご存知であるところが良い。
自分の物の見方を絶えず相対化するのが、オカルティズムと呼ばれる認識態度であるというようなことを、高橋巌先生の本で読んだことがあり、以来、私も常にそのようにしている。
しかしそれは、正しい物の見方など無いと言っているのではなく、究極の神あるいは仏の視点こそが正であり、そこから見れば、人は群盲にも等しい。
多面的な物の見方をいわば契機とするような、内田先生流の精神現象学にでも挑戦してほしい。
一流の学者は体系を作るものだ。
東大入学。天皇制を理解したければ、まず武道修行だ
Sato Yuji
東大駒場寮・東北大明善寮・京大吉田寮・北大恵迪寮が、四大自治寮と言われていたそうである。
私も、建て替えられたばかりの明善寮に入寮したが、旧寮時代を知る先輩からは「寮雨」のようなことは聞いていた。
明善寮の先輩が訪ねてきた時に聞いた話によれば、昔は、寮生が皆、素っ裸で街を駈けっこし、パトカーが来るまでに農学部キャンパス(大学自治の建前から、国家権力がキャンパスに勝手に踏み込めない)に逃げ込んだり、警察署の看板を盗んで帰ったら署長が一升瓶をもって返してもらいに頭を下げてきたりもしたそうである。今の時代では考えられないような武勇伝だ。
なので、内田先生の駒場寮の話も、興味深く読めた。
今の時代のほうが、安全で平和なのかもしれない。私も、決して昔のほうが良かったなどとは思わない。
ただ、昔のほうが、大人たちの懐は深かった気がする。学生たちの稚気を受けとめてくれた。
学生たちにも選良の自負心があった。
その自負心が先鋭化すると、学生運動や、そこから派生したセクトの独善にもつながった。
内田先生が若かった頃は、日本社会全体も、人口構成は若かった。
ベビーブームに起因したようなユースバルジが再び無い限り、当時のような激動が再来することも無いのだろう。
【削除されました】今週平日を憂れ謳うスレッド ~2017年12月1週目~
Sato Yuji
12/6の話で言えば、
養子の悪童が高校受験を迎えるので三者面談とか。
夕学五十講の石川康晴社長の話に感動したりとか。
https://www.sekigaku.net/Sekigaku/Default/Normal/InstructorIntroduction.aspx?SGInstructorID=902
小倉紀蔵『朝鮮思想全史』の深さに、唸っていたりとか。
https://www.amazon.co.jp/dp/B077965WR3
丸山不二夫『量子コンピュータとは何か』
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10214049032637363
をダウンロードして読んでたりとか。
デイサービスから帰った母の話を聞きつつ、トマトサラダや買ってきた生ガキを、母に食べさせたりとか。
大根の煮物を煮過ぎて焦がしたりとか。
その一方でブロッコリーが上手に茹でられて嬉しかったりとか。
あ、洗濯しなかった。
貧乏な万年平社員で、結婚できなかった男ですが、それでもいろいろ忙しかったりするわけです。
なぜ私たちは人を殺してはいけないのか
Sato Yuji
「そもそも人って何?」という問いから始めないと、それを殺してよくない理由が思い浮かばないはずだ。
例えば、原人や猿人は人?
チンパンジーやゴリラは獣?
イルカも獣?
宇宙人は人?
胎児は人?
脳以外が全て人工物でも、人?
脳以外が全て生きていても、死体?
結論を言うなら、人とは、結局、感覚と欲望の奴隷である動物たちと違って、自他を分け、世界を概念化して理解し、自らを振り返り、自らのあり方をも変えていく、自由な精神活動を行う主体だと言えよう。
すなわち、人は神の似姿。創造され、環境の圧力の中で進化してきただけの動物たちと違い、自分で自分を自覚的に変えていけるところが、人の人たる所以。
同じ一つの神の命が分かれて別々の肉体に宿っているという「スピリチュアルな真実」に裏付けられた感覚が「愛」であり、相手を傷つけることは自分を傷つけることのように感じられることが、「良心」の正体である。
人を観察していると、犬のようだったり、猿のようだったり、猫のようだったり、虎のようだったり、いろんな個性の人が居るが、これは人の外側の「アストラル体」の部分であって、それは人間の人間たるゆえんの精神性ではない。
実際には、人が人としての精神性に目覚めている程度には段階があり、あまり目覚めていない人たちが多ければ、その国は、民度が低いとも言われる。そして、そこは、動物的な、弱肉強食の世界にもなるし、殺人も増える。
サイコパスと呼ばれる人たちは、例えば恐竜のような「捕食者」のアストラル体を持ちながら、人間としての本質には十分に目覚めていない人たちのように見える。
だから、人を殺しても、優しい人に寄生しても、弱い人を収奪しつくしても、良心の痛みを感じることが無い。人類は、恐竜にとってはエサであり、エサには同情しないようなものだ。
サイコパスには良心が無いのではなく、エサと自分が同じ神から分かれて来たとは感じられない以上、仕方がないとも言える。
さて、なぜ私たちは人を殺してはいけないのか。
この問いに、理論理性で考えても、実利的な理由以外の答は出て来ない。
それでも、人々に、人を殺してはいけないと感じる「道徳性」を持たせたいのであれば、いわゆる実践理性の要請としてのスピリチュアルな真実に触れられる環境を作っていくしかないのではないか。
NORMAL
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