成長から「降りる」って、できるのか。

2023年1月17日
全体に公開

「成長」ってなんだろう。楽しくもあり、苦しくもある。

「朝ごはん同盟」のトピックオーナー、岡ゆづは記者との対談→https://newspicks.com/news/7936147

最近、「弱さ考の記事を読んで、自分も『常に前に進まなければ』という成長のナラティブに囚われていたと気付けました」という感想を数名からもらった。そこには、少なからず「苦しかった」という心情の吐露が混じっていたように思う。

成長すること。強くなること。よりよい結果を出すため、自分と結果を「制御」していくこと。

初回記事で僕が「弱さ=制御できなさ」と定義したため、「制御=悪」だと捉えている人もいるかもしれない。しかし、それは違う。人間のみならず、細菌のような原始的な生物ですら、サバイブするために、未来を予測し、環境を制御しようとする(詳しくはNPパブリッシング刊『未来とは何か』を読んで欲しい)。

制御はすべての生命の本質だ。

ただ人間だけが、生存に最低限必要なレベルをはるかに超えて制御能力を高めたために、特有の苦しさが生まれている。一度それを「弱さ」を起点にフラットに考え直したい、というのがこの連載の趣旨でもある。

というわけで、今日はこの「成長」について問い直してみたい(なんてったって「大人に、新しい問いを。」が、NewsPicksパブリッシングのミッションなのだ)。

以下、当たり前だと思われていることが本当に当たり前なのか、ゼロから考えてみた。

急成長と繰り返される「暴走する資本主義」批判

まず、ファクトを確認してみよう。

NewsPicks「【5分で名著】人類史を通じて経済を俯瞰する『サピエンス全史』」より 

これは、2000年間にわたる世界全体のGDPだ。いかに僕たちが特殊な時代を生きているかがわかる。この急成長の主要因が資本主義とテクノロジーの発達にあることは疑いようがないだろう。

資本主義の定義は人により多様だ。ただ、定義以上に重要だと僕が考えるのは

「行き過ぎた資本主義が、本来人間が持っていたよきものを(あるいは地球からは資源を)奪い取った」

という(こちらは極度に画一的な)批判が、周期的に現れていることにある。

だとすれば、本当に問われるべきは「なぜ批判を浴び続ける資本主義が生き延びているのか?」ではないだろうか。

資本主義はなぜ止まれないか

この点について、もっとも納得いく説明をくれたのが長沼伸一郎さんの『現代経済学の直観的方法』だった(名著です)。

自分なりの言葉で説明するが、長沼さんは

「負債」と「競争」の2つこそが、資本主義は止まれない原因だと説明している。

まず、負債をつくるとその金利以上の利益を生む必要が出てくる。「では、僕は今持っているお金でできる範囲で、のんびりやりますわ」と我が道を行けばいいのか。そうは問屋が下さない。自由な競争下のもとでは、競合が常に熾烈な競争をしかけてくるからだ。

具体例として、自分が編集担当した『STARTUP』(弊社刊)から最も印象的だったエピソードを引きたい。後発でCtoC市場に参入し、まだシェアが小さかった頃のメルカリは、なんと資金調達「前」にテレビCM実施を先んじて決定。その結果、一気に先行者であるフリルを追い抜いた(フリルはその後楽天に買収されている)。

「のんびりやりますわ」を、競合は許してくれない。

つまり、競争がある限り負債(エクイティ)は必然的に生まれ、負債が生まれる以上、法人は負債と競争を何らかの方法で遠ざけない限り、成長から降りることは許されない。

競争に組み込まれた「無限拡張」のプログラム

ここで「競争」とは何かあらためて考えてみたい。僕は、経済競争そのものに、いわば「無限拡張」のプログラムが組み込まれていると考える。

たとえば、利益は少ないけど、そのぶん競合も入ってこないような事業を、負債を抱えず、つまり手元にあるお金だけで立ち上げたとしよう。それなら「自分のお金でのんびりやりますわ」が許されそうな気がする。

しかし、それは「系」(エコシステムと言い換えてもいい)が閉じている、つまり「外部からの侵入者」がいない場合にしか成立しない。しかし現実には「外部からの侵入者」はほぼ例外なくやってきて、人々のニーズを代替する。

商店街の昔ながらの小さなお店が、ショッピングモールにニーズを代替される。そしていまやあらゆる小売店(その中にはショッピンングモールも含まれる)は、Amazonと戦っている。あるいは、自動車づくりを本業としていたらある日突然Apple Carなるものが発表される。自動運転ビジネスを手がける企業は、そのデータを武器に次は保険業界をも脅かしても不思議ではない。

世界が今ほど密に接続されていなかったときは、「閉じた系」をつくって、成長と距離を置く選択肢もあった。江戸時代の鎖国は国単位で「閉じた系」をつくった例だと言える。たとえそれが「外部からの侵入者」(まさに「黒船」)がくるまでの、束の間の安定だったとしても。

「競争」は、いったんはじまると無限に拡張する。競争がゆるい市場は、常に他の誰かにとっての潜在的な「取り分」となる。競争を止めることができるのは、ただ規制のみだろう。

大航海時代に始まった大規模な拡張は、やがて植民地という「取り分」とともに帝国主義を産み出した。そして世界が完全につながった2023年、物理的なフロンティアはもはや「宇宙」という究極の外部、そして「人体」という究極の内部へと向かっていくほかない。

競争はすべてを埋め尽くす。稀代の天才・ケインズの予想した「2030年には週15時間しか労働しなくてすむようになる」という未来は、どうやら実現しそうにない。

日本脱成長論は、僕はイヤだ

ちなみに僕は「日本はもう成長しなくていい」という脱成長論には賛同できないのだが、それは現代において「閉じた系」を作ることは不可能だと思うからだ。日本だけが脱成長を謳えば、国全体が「外部の侵入者」の取り分となる。そしてぼくらは相対的に貧しい国となり、落合陽一さんの言うようにいずれiPhoneを35万円で買う日がやってくる。

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資源を持たない日本では、あらゆるものが値上がりするはずだ。それは避けたい(それでもなお強引に「閉じた系」をつくる実験的な共同体があれば、ぜひ行ってみたい。ひたすらに自立を唱えるジャック・イリイチの思想には、僕も部分的に共感するところがある)。

僕の個人的スタンスは、環境負荷を減らしつつ、かつ自らが価値を感じられる仕事(⇔ブルシットジョブ)で経済成長を目指すべき、というものだ。

個人は成長から降りられるのか?

法人は成長から降りられない。では、個人はどう生きるか。

僕は「個人が成長に追い立てられる必然性はない」とツイートした。でも、その後、やはり「成長に追い立てられる必然性」は構造として存在するし、耳障りのいい言葉でそこから目を逸らしてはいけないな、と考えをあらためた(なお、例外は常にある。が、ここでは「多くの人にとって」を大事にする)。

さて、ビジネスパーソン個人にとっての成長とは何か? 

それは「労働市場における自分の商品としての価値、いわゆる『市場価値』の向上」とほぼ等しい。

なぜ、市場価値を意識しなければならないか? いち生活者の言葉で言えば、「自分の仕事がいつどうなるかわからないから」ということに尽きる。「外部からの侵入者」は、予測不能な形でやってくる。

保険会社に勤めている人にとって、Appleが競合となる未来など予測しようがない。それこそiPhoneが登場して以降、付加価値の源泉の移動速度は上がり続け、もはや多くの人の認知限界を超えている。

弊社から刊行した『2030年』(おりしもケインズが「週15時間労働が可能になる」と予想した年だ)ではその加速を「コンバージェンス」と表現した。

そう、本のサブタイトルどおり、すべては「加速」しているし、さらに「加速」そのものが「加速」していく。

それはつまり、人が一社のみに勤め上げる難易度が加速度的に上がっているということでもある。僕の父親はその40年近い職業人生をほぼ一社で勤め上げた。一方、僕はといえば、12年目にしてすでに3社目だ。

日本企業の平均寿命は23.8年でアメリカに比べると長いが、早期退職を募る大企業も増えている。だからこそ、「汝の市場価値を高めよ」という天の声を、働く人の多くは無視できない。今勤めている会社、もしくは産業全体に「外部からの侵入者」が現れても、あなたの人生は続いていくからだ。

労働市場ではあなたの固有性は「脱色」される

市場価値。たびたび使われるこの言葉は、どこかつかみどころがなく曖昧だ。働くあなたの毎日は、どこまでも具体的だというのに。

たとえばあなたが今の職場で、少し被害妄想気味のAさんや、昔気質でパワハラ気味のBさんや、器用だが人からの依頼を断れないCさんなど、個性豊かな同僚との関係性の中で役割を果たし、価値を発揮しているとする。

しかし、ひとたび労働「市場」に出ると、あなたの価値は情報量の小さなテキストに還元されてしまう。「営業事務としてサポート業務を推進」「リーダーを務め事業部を20%成長」「原価見直しプロジェクトで利益率改善に大きく貢献」

そこにあなたはいない。Aさんの長話に付き合い、Bさんから後輩を守り、Cさんと一緒に残業して完成させた仕事、それを価値として記述することは難しい。

働くことはどこまでも「固有」であり、環境との相互作用の中で営まれる。しかし、労働市場で商品とみなされるあなたは「普遍」的にその価値を説明することを求められる。

実際には「我が社で価値を発揮できるか?」が次の職場の面接官から問われるわけだが、その「我が社」固有の環境とあなたとの相互作用は予測できないので、普遍的(と思われる)スキルで判断せざるをえない(予告しておくと、僕は普遍的能力など存在しない、と考えている。遠からず「弱さ考」で書くつもりだ)。

その結果、もしあなたが今、職場でうまく働けていたとしても「自分は、(固有性が脱色された履歴書上で、誰もが明確に理解できるほど)普遍的なスキルを身に付けられているだろうか?」と常に自分に問わざるをえない。しかし、一方で人は、他ならぬこの私、「固有な自分」として扱われたいという欲求を持っている。ここに成長(=市場価値の向上)を目指す上での第一の苦しさが生じる。

いつか誰かに商品としてまなざされることを予期して、常に自分に同様のまなざしを向ける苦しさが。

「役に立つ」ことの説明責任?

そして「成長」にはもう一つの苦しさがある、「外部なき競争」により否応なく労働市場に投げ出されてしまった僕たちは、いつのまにか「自分が有用な(=役に立つ)存在であること」の説明責任を負わされてしまった。おかしなことだ。なんでそんなことを証明しなきゃならんのだ。僕たちは「有用性の呪い」を生きている

「ビジネスパーソンとしての自分は自分、プライベートはプライベート」と綺麗に切り分けて人生を謳歌できる人には、現代は生きやすいかもしれない。でも、現実には人間は社会的な動物で、規範に多かれ少なかれ最適化してしまう。「役に立つ人間であれ」という規範の中で生きる現代人は、性格や価値観すら、その影響を受けざるを得ない。

次回はこの「有用性の呪い」が個人の内面にどのような影響を与えるか、そこからどう抜け出せるのかについて考えていきたい。

※この記事では「市場価値を高めよ」という声を無視できない現代のビジネスパーソン(主にはホワイトカラー)の息苦しさを書いた。ただ、そのことについて書くとき、「市場価値を高める」競争自体から望まずして追い出された、不安定な雇用体系の人、働くこと自体叶わない人(以前の僕だ)の多さに気づく。

善人ぶるつもりはない。代われと言われても代わらない。ただ、その人たちのことを思う。

※※くどいようだが、僕は、市場経済および資本主義の擁護者だ(微修正の必要はある)。理由は書くと長くなるので、副編集長の富川さんが前職で担当したマット・リドレー『繁栄』を読んでいただければ。こちらも名著です。

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