なぜ東大合格者ランキングは盛り上がるのか(その4)

2023年4月7日
全体に公開

前回は主に、大学受験におけるアノマリー(不合理性)に着目しました。このテーマの連載としては4回目となりますが、テーマ最後として「理想の教育」について問題提起したいと思います。

帝国大学は難しくなかった?

現代人的な価値観で物事を論じてしまうと、時代の理解からずれてしまうことがありますが、戦前の大学入学は現代的な意味では難しくなかったような気がします。「現代的な意味」と書いたのは、もちろん大学入学率が数パーセントであったので難しいのですが、競争という意味においては現代の「受験戦争」とは異なっていたように思います。

「商家や農家を継ぐのに学校なんかいってどうする」という時代だったので、大学全入で、誰しもがより良い大学を目指すようになった現代とは大分違いますね。

実際、東大をはじめとする帝国大学は、入試としては今ほどは難しい存在はなかったようです。その一つの理由は、旧制高校から実質推薦のような形で帝国大学に行けたことがあります。必ずしも東大一択にはならなかったようです。例えば数学者の岡潔も、東京帝国大学を視野に入れていたようですが、最終的には京都帝国大学を選んでいます。

また、大学の中でも棲み分けがあり、例えば、当時ステータスの高かった学校教諭になるための試験は、一部の私立大学卒業生には免除されていました(例えば、東洋大学の前身となる哲学館など)。あるいは、商科大学や医科大学(旧制6医科大)もありました。目的と地元にあった学校が整備されていたため、東京一極集中にはならなかったように思います。

陸海軍の受験地獄

受験の難易度で言えば、旧制高校より難しかったのは陸軍士官学校(またはその中等部にあたる陸軍幼年学校)、あるいは江田島の海軍兵学校だったように思います。

城山三郎の『落日燃ゆ』にも、広田弘毅がもともと陸軍士官学校志望だったところ、同級生に説得されて外交官に転じたという話がのっています。広田弘毅といえば、陸軍と衝突をしながらも、最後は陸軍とともに東京裁判で絞首刑となった「悲劇の宰相」としてのイメージが強いですが、その広田も士官学校に行こうとしていたというのは、いかに陸海軍士官学校が人気(というより憧れの対象)であったかを示している気がします。

私の曽祖父も、北野高校から大阪帝国大学に進学していますが、身体に問題がなければ士官学校を目指していたような気がします。実際、その兄弟はすべて士官学校と兵学校を卒業しています。

年度によって異なりますが、受験制度も現代よりも複雑なものでした。まず、陸軍士官学校の場合、学科は、今で言う国語、数学、理科、社会の全てが問われ、丸4日間かかったと言われています。これに加え、口頭面接や身体検査も行われます。特に海軍の場合は身体検査は厳しく、視力や肺活量、身長などさまざまな項目によってかなりの人数が落とされたといわれます。士官学校と大学校を恩賜組で卒業することになる瀬島隆三も、陸軍幼年学校は補欠合格でした。

陸海軍の学校制度

戦後の民主化教育の反動からか、肯定的に研究されていないようですが、陸海軍の学校制度は、そのシステムだけ言えば、ほぼ完璧だったのではないかと思わなくもないです。

陸軍と海軍で異なりますが、陸軍の場合は幼年学校がありました。入学は満13歳以上・満15歳未満の男子だったため、今なら中学生から高校生くらいです。無試験で陸軍士官学校に進めるため、現代で言えば大学附属のような位置づけです。陸軍士官学校で学び、一定の現地勤務と、勤務内容が評価された上で、陸軍大学校に一部が進学しました。

陸軍大学校というのは、士官学校(現代の大学相当)と実務経験がなければ入れなかったため、ある意味では今日のMBA的な位置づけだったように思います。ちなみに、最古のMBAである、ハーバード・ビジネススクールも、もともとは軍事マネジメントの研究から始まっており、現代でもウェストポイント(陸軍士官学校)やミネアポリス(海軍兵学校)の出身者が数多く学んでいます。

海軍については、幼年学校はありませんが、全国の中学から江田島の海軍兵学校に入学してきました。海軍の場合は必ずしも大学校を出ることがエリートの必須条件ではなかったのですが、リベラルアーツ的な兵学校を出たのちは、水雷学校や砲術学校などの専門学校に進みました。

生徒数2・教授数1

幼年学校の特質すべき点は、教授陣の豊富さです。時期にもよりますが、生徒2人に対して教師が1人あてがわれました。現代で考えても有り得ないレベルの手厚さです。しかも、教師といっても、職業軍人だけでなく、ドイツ語やロシア語、英語などはすべてネイティブの教授でした(日本人の教師では、英語を教えられなかった事情もあります)。

幼年学校、士官学校、大学校を統括する教頭や校長は全て現役の将官クラスです。これは現代の感覚でいえば、大企業の現役取締役が、生徒と寝起きを共にし、直に教鞭をとっていたということを意味しています。

さらにカリキュラムもバランスよく設計されていました。特に士官学校や兵学校では数学などの理数教育に力が入れられていました。兵学校では、戦時中も(敵国語である)英語教育が行われるなど現代的に見てもリベラルな教育だと思います。戦後、士官学校や兵学校が廃校になった際には、無試験で帝国大学への入学が認められました時期がありましたが、逆に言えば帝国大学相当のリベラルアーツをこれら軍事学校で教えていたことを意味しています。

もちろん、将来の指揮官となる生徒は体力作りにも重点がおかれています。棒倒しや遠泳、登山競争といった身体訓練は日頃体力を鍛えている生徒にもかなりハードだったと言われています。特に棒倒しは学年に関係なく、殴る蹴るの暴行が許容されていたので、生徒によっては苦痛で苦痛で仕方なかったようです。また、これらの運動を行ないながら、学科の勉強もしないといけないので、自習時間の眠気に耐えることがかなりの苦痛だったと言われています。

しかも座学だけではありません。水雷学校、砲術学校のように、兵学校卒業後は実務的・専門的な学校も準備されていました。教育水準の高さ、合理的なシステムの観点だけで言えば、おそらく、日本の中でも抜き出た存在ではないかと思います。

陸海軍の学校制度は理想の教育機関か?

しかし、システムと内容だけで見れば完璧だと思われる陸海軍の学校制度は、戦後になって批判的にみられています。深く研究すれば、現代の教育への示唆も出てくると思うのですが、過去の学校制度に対する研究が真剣に行れていないのが残念です。

海軍については、あまりにも成績偏重であったことが批判の対象となっています。先にも述べたように、大学校を出ることは必ずしもエリートの必須条件ではなかったのですが、その代わり「ハンモックナンバー」と言われる卒業席次が将校の出世を左右していたと言われています。

ロンドン軍縮のあたりから艦隊派と条約派の対立があり、山本五十六や米内光政といった成績下位者も活躍を見せ始めるのですが、「神様の最高傑作」と呼ばれた堀悌吉や、(頭が切れて直言的な)「カミソリ」の異名を持つ井上成美など、海軍の主流はあくまでも成績上位者によって占められていたように思います。

こうした成績優等生への反動か、山本五十六は、黒島亀人のような癖の強い人物を重用しました。しかし、これはこれで連合艦隊内での人事上の混乱を招いたと言われています。また、現代で言えば、中学から大学院までずっと男子校であったため、男色傾向が生まれたとも言われています。見た目だけで言えば、日本人と思えない米内光政や井上成美など、海軍上層部には美男が多いことが知られています。

こうなってくると、本来実力主義を徹底しなければいけない軍隊において、学業成績や外見といった要素が強くなってくるわけであり、機動的な人事が困難であったと言われています。また、学校教育にはない、例えば航空戦力などの新戦力の導入はかなり遅れました。学校で学習しない内容は邪道である、とのバイアスが生まれてしまった可能性があると思います。この辺りは現代社会においても示唆に富むのではないでしょうか。

陸軍は陸軍で、特に幼年学校からの純粋培養が、幼年学校出身者とそれ以外を隔ててしまった、という批判があります。服部卓四郎や辻政信などの幼年学校出身者が中央で人事や作戦参謀を担っている一方、現場の指揮官クラスは幼年学校出身者以外が多かったようです。『硫黄島からの手紙』で知られる栗林忠道や、東南アジアで善政をひいた今村均などは成績優秀で陸軍大学校を卒業しましたが、幼年学校を卒業していないためか、陸軍の中央からは外れていました。

このあたりは、現代で言うと、同じ大学の生徒でも(付属)小学校出身者と大学入学組では見えない壁があることににているかもしれませんね。

さて、東大合格高校ランキングをもとに、4回にわたって教育論について考えてきましたが、次回からは少し違うことを書こうと思っています。

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